キム・ホンソンの三味一体
vol.160 私を憐れんでください!
2021-11-05
聖書の中に、バルティマイという盲人の物乞いが、イエスが道を通って行くことを知っては「私を憐れんでください」と叫んだ話があります。周りにいた人々がバルティマイを叱りつけて黙らせようとしたけれども、彼は益々大きな声で叫んだとあります。人々は何の役にも立たない、何の価値もないただの盲人の物乞いが、時の人であったイエスに声をかけることが許せなかったのだと思われます。しかし、イエスは彼の叫びを聞いて彼を近くに来るように招きました。バルティマイはそのことを知って、喜びのあまり自分の唯一の財産であった上着を脱ぎ捨てて躍り上がってイエスのところに行ったとあります。
盲人の物乞いであるということは、自分の人生の中で自分がコントロールできることがほとんどないことを示唆しています。周りの人々には蔑まれ、家族からも家に負担をかける者として思われていたのかも知れません。その彼が躍り上がるほど喜んだのは自分のような者の声に耳を傾け、目を留めてくれる人がいると知ったからです。彼に注がれたイエスの憐れみこそ、今私達に必要なものではないだろうかと思うことが多々あります。
私達は、自分で自分の人生を切り開いて行くことを求められる社会に生きています。しかし、「為せば成る」、「努力は必ず報われる」という標語を掲げてはいるものの、必ずしも成功したり報われることはないのです。バルティマイのように自分のコントロールを超えたところでのどうしょうもないような限界、どうにもならない問題を抱えている現実が私達の人生にも確かにあります。それが病気であれ、家族を失うことであれ、または、事業の失敗であれ、どうにもならないことが確かにあるのです。そのような時「私を憐れんでください!」と叫ぶことのできる対象があることを知るのは慰めです。そして、その対象が確かに自分の叫びを聞き応えていることを感じるのは救いに他なりません。
心に悩みを抱えたまま、ざまざまな問題を抱えたまま、それらの悩みや問題が解決されないままの状態にもかかわらず、喜びに満たされ躍り上がることがあるのです。どうしょうもない限界にぶち当たってもなお希望を持つことができるのは、私達の出来不出来にかかわらずいつも変わらず私達を憐れんでくださる存在を知るがゆえです。
礼拝:日曜日午前10時(オレンジ・カウンティ)、日曜日午後2時(トーランス)
お問い合わせ:khs1126@gmail.com (310) 339-9635
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。