キム・ホンソンの三味一体
vol.153 痛みというギフト
2021-07-16
親になって以来ずっとそうなのですが、テレビやラジオでニュースを見たり聞いたりしていて、どうしても見ることが出来ずにチャンネルを変えるか電源を切ってしまう類いのニュースがあります。事故や事件などによって我が子を失った親についてのニュースがそうです。最初の出だしを聞いただけでも、胸の奥がぎゅっと縮むような感覚が走って耐えられなくなってすぐに電源を切ってしまいます。おそらくその親の痛み悲しみに共感するからだと思います。
聖書の中にイエスが「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」という記事があります。この時の「憐れむ」として訳された元々のギリシャ語は、相手の痛みを自分の痛みとして感じる時の強い共感を意味しています。どこからも助けを受けることが出来ない人々、弱く貧しく虐げられて疎外されていた人々の痛みに共感することができたのは、イエス自身の痛みを通してではなかっただろうかと考えます。
イエスがベツレヘムで生まれた直後、イエスと家族は、ヘロデの殺意から逃れるためにエジプトに逃れました。つまり難民となったわけです。生活の基盤のないエジプトの地において難民としての生活はけして楽で心地よいものではなかったはずです。また、故郷のナザレに帰ってからの生活においても、それまでの素性を人に知られたくないような、「違い」という痛みを覚えていたのではないでしょうか。そのような痛みがあったが故に、当時、罪人と烙印が押され嫌われていた徴税人や娼婦を弟子として受け入れ、異邦人をはじめ重荷を負った全ての人々の痛みに共感し、断腸の思いで人類の救済のために十字架にかかることができたのではないでしょうか。
考えてみると、生きている以上だれもが「痛み」というものを持っています。そもそも、年老いてやがては死んでちりに帰る存在に過ぎないというだけでもすでに私達は痛みを抱えた存在に過ぎません。しかし、自分の痛みをなかなか他人に分かってもらえないと思いがちになる割には、自分の痛みを通して他人の痛みを感じようとはしていないのが現実ではないでしょうか。
イエスに倣って、人の痛みを自分の痛みとして共感し、その人と共に嘆き、共に憤慨し、共に喜び、共に愛し合うことこそ、この世界を少しでも良くすることであり、同時に痛みを抱える私達自身が癒されることでもあるのではないでしょうか。
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

