キム・ホンソンの三味一体
vol.151 世界というリンゴの皮の内側にあるもの
2021-06-04
「わたしの国は、この世には属していない」、これはイエスを十字架につける前にピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」とイエスに問うたことに対するイエスの答えです。この時イエスが言った「国」とは、死後の世界のことでもなければ、SFに出て来るような四次元のような世界のことでもありません。私達は自分達の目に見えて手で触れることのできる物質的な部分だけを世界だと認知しがちになりますが、そのような人間中心の世界観では見ることのできない世界があります。
イエスは天国に関しても死んだ後に行くところという通念を覆して「神の国は現にあなた方の間にある」という言い方をしています。ということは、私達がすべてだと思っていた世界はリンゴの皮に過ぎないのかも知れません。私達が完全に把握していると思っていた世界のその奥に神によって創造された世界の本質というか、私達の命の意味と目的をハッキリと映し出してくれる世界の本当の姿が横たわっているのかも知れません。
大分前の話ですが、ある無神論者の年配の方とお話しをしたことがあります。「信仰というのは、弱いから、何か自分に問題があるから、神にすがりたいから持つものだけど、自分はなんの問題もない。自分には必要ない」という彼の言葉に対して私は、「そうかも知れませんね。しかし、世の中に何の問題もない人っていないのではないですか。」と言いました。すると、彼は「いま住んでいるのは持ち家で、健康保険にも入ってるし、貯金だってちゃんとある。」と言いました。
彼が認識している世界は目でみることができて手で触れることのできる世界の物質的な断面です。しかし、世界の物質的な面だけを考えてもこの世に確実なものは何一つないということくらいは簡単に分かります。先まで確実にここにあったけれども、今それが嘘のように消えてしまった、というようなことを、私達は日本のバブルの崩壊やアメリカのリーマンショックを通して経験しました。一つの国家が倒産してもこの会社だけは絶対に大丈夫だといわれたソニーやコダックが今となってみればそうでもなかったような感じだったりするわけです。
信仰を持つということは、創造主の神の前に謙虚になり、世界の物質的な断面を超えて世界の本質を知っていくことです。それは、「これだけあれば安泰だ」ということに対して、人の人生には物質的な充足に優る意味があって、自分だからこそ担える目的が与えられていることに気づいていく旅路でもあります。
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※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

