キム・ホンソンの三味一体
vol.149 実は、羊飼いがいた
2021-04-30
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 」
聖書には色々なところで神と人間の関係を羊飼いと羊にたとえています。羊というのは、非常におとなしく従順であるけれども、その反面、愚かで、弱く、迷いやすい性質があるので人間に似ていると考えたのです。実際に羊は羊飼いの方を常に意識しながら進まなければならないにも関わらず、目の前に生えている美味しそうな草につられて自分が迷っているとも自覚しないで、どんどん進んで行ってしまう愚かな性質がある、と言われています。
社会的な動物とも言われる人間も、群れを成し社会のルールに従って、おとなしく生きている面も確かにありますが、自分の羊飼いが誰かとしっかりと認識して従って行くことができず、道に迷って困り果てることも多々あります。
クリスチャンでもそうでない人々でも道に迷う一番の原因は自分を過信する時ではないだろうかと思います。私達はマイノリティーの移民者として、アメリカで人一倍頑張って生き抜いてきた自信というか、自分なりに他所の国で築いてきた自分の人生に対してそれなりの誇りのようなものがあるのではないでしょうか。自分の力で自分の人生を生きてきた、とどこかで思っています。しかし、自分の力以外の別の何かの力によって守られていたとしたらどうでしょうか。
今まで生きてくる中、常に目にしてきたのは、周りの人々です。家族だったり、仕事仲間だったり、ライバルだったり、友人だったり、羊の群れの一員として言うのであれば、同じ群れの羊なかまの、お尻や肩や顔を見ながら、前へ前へと進んできたわけです。頭を上げてもっと高くを見たなら、導いてくださっている羊飼いを見ることができたのかもしれない。しかし、その日その日を一生懸命生きていく中、そこまで気づくことは中々難しいものです。しかし、実は羊を守るためなら自分の命をも惜しまない羊飼いが私達を導いてくれていたとしたらどうでしょうか。きっと今までの自分の歩みはすべてその羊飼いの導きだと信じ安心して悔いることなどないのではないでしょうか。自分ではとても残念だったと思った結果に対しても、うまくいって人に自慢したいような結果に対しても、一喜一憂せずに自分にとって最善の道へと導いてくださる羊飼いに信頼して安心して歩むことが出来るにちがいありません。
礼拝:毎週日曜日午前10時、午後2時 お問い合わせ:khs1126@gmail.com
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

