キム・ホンソンの三味一体
vol81 理由のない「好き」
2017-08-24
最近、夏休み中の娘は学校区が提供するデイキャンプに通っています。学校とは違っていつも一緒に遊んでいたお友達がいなくてつまらないと、娘は時々ぼやいていました。しかし、先日のことです。仕事を終えてデイキャンプから娘をピックアップすると、いつもとは違って目を輝かせながら新しく出来たお友達のLちゃんについて話し始めました。家に着いてからも、晩ご飯の時も、シャワーの前の歯磨きの時も、ベッドに入ってから寝るまでのしばらくの間でさえ、マシンガンのようにLちゃんについて話していました。しかし情報の量は膨大であっても、まだ7歳児と幼いためか、いまひとつお友達の人物像がつかめませんでした。日本語がとても上手、でも日本の名字ではない(ここは相手も同じく思ったはずです)。髪は黒くて自分と同じような顔をしている(娘的にはアジア系だという時によくこの表現を使います)。
それから数週間後、娘のお誕生日会に来てくれたLちゃんに初めて会うことが出来ました。娘が言っていた通り日本語がとても上手で楽しいお子さんでした。ただ娘と同じような顔では全然なく、バービー(人形)の妹、ケリーのような顔立ちで将来女優にだってなれそうな顔でした。
二人はその後も益々大の仲良しとなって、ほとんど毎週末のようにどちらかのお家でプレイデイトをするようになりました。そんなある日、娘に「Lちゃんのどういうところが好き?」って聞いてみました。「分からない。ただ好き。いつも一緒にいて遊びたい。」とまるで一緒に楽しく遊んでいるところを思い出したかのように満面の笑顔で話している娘を見ていると、何だか考えさせられたような気がしました。娘の言った通り、人を好きになるのに理由など必要ないのかも知れません。むしろ理由などあるべきではないのではないでしょうか。理由のある「好き」はその理由が相手から消えた瞬間、好きじゃなくなる「好き」ではないでしょうか。逆に理由のない「好き」は、相手に縛られない「好き」で力強い「好き」です。理由のない「好き」だからこそ相手が苦しんでいる時に共に苦しみ、悲しい時に共に泣くこともできます。そこには何ら損得勘定も理由もありません。
「えらい!いいこと言ったからパパが何かオモチャでも買ってあげる。」というと「やった!いつもなんか買ってくれるからパパ好き!」って娘が言いました。その「好き」には理由があったのですね。複雑な気持ちになりました。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

