苦楽歳時記
第207回 病気
2016-07-14
吉田兼好が著した鎌倉時代の随筆、『徒然草』の第百十七段には、友とするにはふさわしくないものが七つあると説かれている。
その中の一つに「病なく身強き人」を挙げているが、おそらく兼好法師は健康な者には、他者の心の痛みはわからないとでも言いたかったのだろう。
ヒルティの『幸福論』第三巻(正木 正訳)に、「病気」に関する記述がある。
「幸福は健康がなければ生じないというのであれば、悲しいことであろう。だがそれは真実ではない。不幸な病人があると同様に、幸福な病人もあるのである。病気と幸福は絶対的に対立させるものではない」
「病気もまた幸福であり得るのであって、健康な日には起らなかったものが、一段と高い人生観への浄化剤ともなり、血路ともなることが出来るのである」
僕は聖者と仰がれたヒルティの、この味わい深い一文が好きだ。また、近代フランスの人道主義者で作家のロマン・ロランは、「病気はためになることが多い」と明言している。
なぜならば、「肉体を痛めつけることによって、魂を解放して浄化するからだ。一度も病気をしたことのない者は、十分に自己を知っているとはいえない」。
「わたしは傷を持っている/でも、その傷のところから/あなたのやさしさがしみてくる」(星野富弘)
不慮の事故により、首から下の自由を奪われてしまった星野さんは、この試練を通して、真の慈しみと出会ったのである。
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この僕は、医師団から手の施しようがないと言われて、さじを投げられてから五十六日。
今、聖霊がうずまく牧師館で、ホスピスケアを受けている。
四十四日目、顔色も良く食欲も旺盛で、快眠快便。四十七日目、肺に大きな穴が開いているところから、空気もれがなくなった。四十九日目、しつこい咳とタンが止まった。五十二日目、酸素吸入を外した。五十四日目、一人で歩けるようになった。
何という大いなる主の恵み。 ♪ 主は今、生きておられる。わがうちにおられる。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

