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第4回 『あめりか物語』 永井荷風
2016-04-14
名古屋大学准教授の日比嘉高氏によると、『日本近代文学』第七十四集のなかで、『あめりか物語』は「日本文学」であるのかと問題提起している。
二〇一二年の三月に、ロサンゼルス市図書館小東京分館で、白百合女子大学の粂井輝子教授の講演会のなかで、アメリカの地で日本人(日系人)によって発表された文学は、まぎれもない「アメリカ文学」だと公言している。
永井荷風は明治の上流階級の家に生まれる。知識人の父母をもち、厳格な家庭環境で育てられ、清元、日舞、尺八の稽古にも通う。落語家、朝寝坊むらくの門弟として師匠の世話をしたり、さらには狂言作者見習いになっていた。
同時に、小説を雑誌に発表し続けていた荷風は、父の命により「文芸遊戯」にふけることをやめて、荷風二十四歳(一九〇三年)のとき、父の意向で「実用の学」を修めるべく渡米。四年の滞在期間中にタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンDCなどを巡った。
荷風は父の想いのままにアメリカへと渡ったが、荷風自身はフランスに赴きたかったのである。外国へ出向いて、見聞を広めることは創作の基になるとの考えであった。
『あめりか物語』は、短編小説集(エッセイ・旅行記)。この作品は一九〇三年から〇七年(明治三十六から四〇年)の四年間、荷風が渡米したときの体験を元に綴られている。
「ただ行かんがために行かんとするものこそ、真個(まこと)の旅人なれ。心は気球の如く軽く、身は悪運の手より逃れ得ず・・・」。このボードレールの詩が巻頭を飾っている。
この物語には移民としての日系人、あるいは駐在員、留学生の暮らしぶりが克明に描かれている。往時のアメリカ社会の一断面が鮮やかに活写されている。
やがて荷風はパリへと渡り、フランスには十ヵ月滞在している。『あめりか物語』と『ふらんす物語』は、海外における二連作である。帰国後直ぐに『あめりか物語』を刊行。好評を博した。一九〇九年に発行された『ふらんす物語』と『歓楽』は、風俗壊乱として発売禁止となった。
帰国後しばらくして、森 鴎外と上田 敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。『三田文学』の創刊にも寄与している。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

