苦楽歳時記
vol186 心がけること
2016-02-18
『上方いろはかるた』にある「下手の長談義」とは、口べたな者にかぎって、話しがまわりくどくて的を射ていないという意味だ。
口は禍の門である。「舌をすべらすよりも、いっそ足をすべらすほうがいい」。これはブルガリアの警句。
思いついたことを自分の頭の中で十分に吟味しないで、矢継ぎ早に喋る人がいる。普段よく喋る人は、喋っている間に何か益になることを喋っているのかというとそうではない。
周りの者も聞くふりをしているだけで、明日になればその人の述べたことは、ほとんど忘れてしまう。
ところが日ごろ寡黙な人が、その場において機知に富んだ円熟した短い言葉を発すると、周囲の者は直感して、その言葉を厳粛に受けとめることができる。
雄弁家としてよく知られていたフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーは、必要なことは全部喋らず、必要でないものは一切談じなかった。
一四世紀中ごろに書かれた隠者文学の傑作『徒然草』の五十六段には、駄弁を弄することを無分別な、無教養な人間のすることであると、兼好法師は強く批判している。
また、新約聖書に書かれている人間の舌の記述については、しばし黙考せずにはいられない。「舌は、小さな器官であるがよく大言壮語する(中略)あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せされてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは制しにくい悪であって、死の毒に満ちている」。
「口から出れば世間」とは、いったん口外すれば世間に対して責任があるので、慎重にせよということわざである。あまり喋りすぎると誰でも失敗を招く。では、知恵にねられた機知に富んだ簡潔な言葉のエッセンスを、どのように採集すればよいのだろう。
まず、少なくとも自分の心中に怒りや憎しみ、不平、不満があってはならない。絶えず感謝して喜んでいるように心がけることである。
油のそそがれた活きた言葉で、互いの徳を高めるように心がけることだと思う。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

