キム・ホンソンの三味一体
vol52 我が家のクリスマス
2015-12-30
我が家の双子ボーイズの一人が大の犬好きということが最近分かりました。1歳と8ヶ月でぼちぼち単語を話せるようになったのですが、中でも「ドギー(わんわん)」という単語は、一番頻度が高い言葉だと思います。犬探知機さながら、犬を見かけると、テレビであれ実物であれ、まるで離ればなれになっていた恋人に再会したような声で「ドギー!」と叫ぶのです。公園に行った時などは、飼い主と散歩中の犬を片っ端から呼び止め、なでなでさせてもらって幸せそうな顔をします。彼の場合、生まれてから一度も犬との幸せな思い出はないはずなので、おそらく犬が好きなのは生まれ持ったものだと思います。
さて、今年もまたクリスマスがやって来ました。考えてみると私達人類にもどこかで救い主を待望しているようなところがあるのではないでしょうか。毎日のニュースから聞こえて来る世界の様子は、争いと嘘と暴力がいつまでも繰り返されているように思えてなりません。「平和の君」を切望せずにはいられない状況なのです。
2015年前の初めてのクリスマスの当時も、人々は救い主を切望していたと言われています。聖書によると、救い主を身ごもったマリアは、ほぼ臨月に近かったにも関わらず、お産を優先することも出来ず国家命令によって遠い先祖の地に住民登録のための旅に出なければならなかったようです。そしてマリアとヨセフがどうにか先祖の地ベツレヘムに着いた時にはすでに宿屋はすべて満員、馬小屋で家畜に囲まれながらお産をしなければなりませんでした。そして当時の権力者は救い主の誕生によって自分の地位が脅かされると不安になり、聖夜にベツレヘム周辺で生まれた数百人の赤ちゃんを殺戮してしまいます。なんという皮肉でしょう。救い主を待っているはずのこの世は、同時に救い主を拒絶し抹殺するこの世でもあったのです。しかし、拒まれつつも馬小屋という間隙を縫って来てくださった救い主は、今なお人々に勇気と安らぎを与え続けているのではないでしょうか。
今年のクリスマスも、救い主が来ることで都合が悪くなる自分がいないかどうか不安ながらも、平和の君イェスを迎えることに心躍る我が家です。願わくは、離ればなれになっていた恋人に再会したような声で「イェスさまー」とみんなで叫んでお祝いできますように。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

