苦楽歳時記
vol175 ありがとう!
2015-11-30
闘病生活を七年以上も続けていると、吾ながらよくやったと顧みることがある。と言うのは、吾輩は小心(臆病)者であるから悪疾には耐えられないと思っていたからだ。
病院、あるいは自宅に見舞い客が訪れるときがある。そんな折には、言語障害の吾輩の語る言葉を、柔和な面持ちでしずやかに聞いてくれるだけでここちよいのだ。
吾輩の病勢は、七年以上も一進一退で予断を許さない。様態が悪化してくると沈痛になってくる。ストレスがたまり免疫力が減退して、三半規管も支障をきたす。
緊迫状態が続くと体温が低下して、身体が異様に震えて祈ることもできなくなる。精神的に追い込まれると、正常な判断ができなくなり否定的なことばかり想い起こす。それはまさしく鬼胎以外の何ものでもない。
健常者であれば、何かしらの気ばらしができる。しかし、吾輩は一人では外出もままならないので、精神的重圧に耐えなければならない。
昨今の吾輩は、優心におそわれて寧日(ねいじつ)のない日々がつづく。ある日、家人にこっそりと「安楽死させてくれ」と頼んだこともある。闘病者には、想像を絶する病との壮絶な闘いがあるのだ。
今、この恐れと不安はどこから来るのであろうか。物理学者の寺田寅彦は述べている。「病人には回復するという楽しみがある」。
何もわかっていない。その言葉に、吾輩は蛇蝎(だかつ)のごとく嫌悪する。
僕自身もまた、何もかもわからない。心のそこから手を合わせられるのは、いつのことになることだろう。苦しいけれども、つたない文章を書きつづけること。それしかないよな。
この夏、右肺の手術をした傷口から、またもや止めどもなく出血している。この稿を書き上げれば、直ちに病院のアージェント・ケアーへ駆け込んでみようかと思う。
いつも僕のことを温かく見守ってくださる本紙スタッフ一同と、読者の皆様に心から感謝しています。ありがとう!
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

