苦楽歳時記
vol169 ノーベル文学賞
2015-10-15
毎年候補に挙がっている村上春樹が、今年もノーベル文学賞に至らなかった。『ノーベル財団』は、村上春樹を正式にノーベル文学賞候補であると表明はしていない。
ノーベル文学賞に有利なのは純文学。村上の作品は通俗小説である。ミリオンセラーとなった『1Q84』も、通俗恋愛冒険小説である。また、村上はペンクラブに所属していない。文壇とも深い交流がほとんどない。ノーベル賞の選定については、基本的には推薦によるものである。村上にとっては厳しい状況が続いていたのだ。
一九六八年、日本人として初のノーベル文学賞を受賞している川端康成は、日本ペンクラブの会長を十七年も務めており、一九九四年に受賞している大江健三郎も、ペンクラブ理事、副会長だった。
井上靖、遠藤週作、芹沢光治良などもペンクラブ会長を務め、毎回候補に挙がっていたがノーベル文学賞には及ばなかった。これは明らかに彼らの作品には、通俗的要素が織りこまれていたからである。
ノーベル文学賞の対象となるためには、推薦、文壇への貢献、受賞歴、各国の翻訳、(純文学作品)などである。川端も大江もこの基準を満たしている。それに加えて根回しも重要となる。
このあからさまな根回しに功を奏したのが大江健三郎である。裏目に出たのは、三島由紀夫と村上春樹。
村上は二〇〇九年に『エルサレム賞』の受賞式で、イスラエルによるパレスチナ人の扱いを強く非難した。続いて二〇一一年に『カタルーニャ国際賞』のスピーチで、反原発の立場を言明している。これらの発言に対して、ノーベル文学賞を意識した政治活動だとみなされた。
政治的思惑があるのなら、今年ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチのように、具体的に主張し続けなければならない。
ノーベル文学賞についての放談を続けて語りたいが、紙面に限りがあるので結びにしたい。最後に、『ノーベル財団』にひとこと、「文学に純も通俗もない。あるのは良い文学と悪い文学だけだ」。文学・文芸の本質を論議する際には、これが基(もとい)になると想う。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

