苦楽歳時記
vol161 しくじり
2015-08-20
年齢のせいか病気のせいか知らないが、気がつけば身体が縮まっていた。年のせいか病のせいか知らないが、昨今とみにしくじりが多くなってきた。
文章を書く仕事をしていると、自分の誤用に気がついて落胆することがある。本人校正の際にもまったく気づかず、ゲラ刷りの段階では編集者の目をかいくぐり、掲載された後になって心づく。
交通の仕事に携わっている者は、しくじりは命を落としかねない。ものを書く人間はしくじっても、己がわざわいをこうむるだけだ。
夏目漱石が歿してしばらく経ってから、全集を出版する話が持ち上がった。誤植が無いようにと、十九度も慎重に校正を繰り返した。ところが、製本されて書店に並び始めると相当の誤植が発覚した。
責任者の小宮豊隆は、責任を明らかにしようと校正刷りを全て点検した。すると意外にも、誤植の大半は初校からあったもので、十九人の校閲の目を、まんまとだまして見せたのだ。
しくじりは人生にはつきものである。しくじりを重ねて人間は成長していく。
けれども、ある地位の者が言葉でしくじると大変なことになる。閣僚の一人が、とんでもない発言のしくじりを演じると、後々まで尾を引く。取り返しのつかないことになる。国を貶める結末になる。
人との面談が終わった後に、あの時こう申すべきだった。ああ言うべきだったと思うことがある。文章にしても、脱稿して掲載されてしまってから後悔することがある。
語る前と執筆する前には言葉をよく吟味して、文言を選んでから述べなければならない。さりとて、どんなに慎重に心してもしくじりはおさまらない。
「人間が神のしくじりにすぎないのか、神が人間のしくじりにすぎないのか」(ニーチェ『曙光』(しょこう)より)。全知全能者である神がしくじると、もはや神ではないのである。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

