苦楽歳時記
vol133 子供の目
2015-02-05
授業中に児童たちが書いた詩の中から、担任の先生が秀作ばかり数編の詩を選び出した。教諭は日頃から詩歌に馴れ親しんでおり、子供の詩に対しても、深く理解のできるまめやかな観察眼が備わっていた。
先生は子供たちの詩を幾つかの項目に分けて評価した。その後で、客観的に詩全体を見る。ここまでは良いのだが、この先生が実際に選出の対象とした基準がまた別にあった。
詩を書く前に説明しておいた約束ごとを守っていること、文字が綺麗なこと、そして習った漢字で書いているかどうか。
担任の先生は、詩の時間を国語の授業全体として捉え、詩作を通して生徒たちの発想力や、日頃の感性を推し測ろうとしていたのである。
この様なアプローチの仕方は、今後の授業展開において有益な礎となることであろう。だが、子供の目を通して書かれた純粋な「詩」が、間違った観点から評価の対象とされて用いられるのであれば、詩作の才能が充溢している子供の能力を妨げることになってしまう。
詩作は、子供たちに提供されている「学習などではない」。子供の目を通して書かれた無限の夢の発露なのである。
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『おとうさん』六歳 おおたに まさひろ。
おとうさんは/こめややのに/あさ パンをたべる
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『いぬ』六歳 さくだ みほ。
いぬは/わるい/めつきはしない
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この短い二つの詩を読んで、子供のものを見る目の素晴らしさに感嘆しない人はいないだろう。灰谷健次郎さんは、後ろのほうの詩について、「この詩を読んだとき、わたしはからだのまん中がずーんとして、しばらくものがいえませんでした」と述べている。『子どもの目からの発想』河合隼雄(講談社文庫)
子供の詩を鑑賞する場合でも、映画や小説を読むときの心得とまったく同様である。まず、あらゆる先入観を排除するように心がける。子供と同じ視点に立って物事を捉えて考えること。子供の書いた詩を読むのではなく、童心にかえって、友だちが書いた詩を読むようなつもりで読む。子供にしか見えない鋭い観察眼を察知する。発想の多様性を理解する。
このように鑑賞することによって、児童詩を理解する感性が磨かれていくのである。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

