キム・ホンソンの三味一体
Vol39 初めての「死」
2014-11-28
先日娘が飼っていた金魚が死にました。現在4歳と4ヶ月になる娘が今年のはじめから飼っていたのですが、朝起きてみると水槽の中で浮いたまま動かなくなっていました。これまでは、お庭に落ちていた蜂の死骸やカラカラに乾いて死んでしまったカタツムリなどを通してなんとなく「死」について知ってはいたものの、自分が飼っていた金魚の死には多少なりとも衝撃を受けたようでした。「もうおよがないの?おなかがすいてるの?」「ううん、死んだんだよ」「ばってりーをかえたらいっぱいおよぐの?」「一度死んでしまったらもう元には戻れないんだよ。」「なんでしんだの?」と娘は涙ぐんだ目で聞きます。「なぜ死んだかは分からないけど誰のせいでもないんだよ。」「命あるものはいつかみんな死ぬものなんだよ。だから神様からもらった命を全部生きるまでだいじだいじにしてあげるの。パパもママも双子の弟達だっていつかは死ぬわけだから今みんなでこうやって一緒にいられることを神様にありがとうしないとね」娘は瞬きもしないで目をまんまるにして一生懸命に聞いていました。
クリスチャンの信仰では「死」について語ることはタブーでもなければ縁起の悪いことでもありません。むしろそれぞれの「死」を意識しながら生きて行くことこそが知恵ある心を得る道だと聖書には書かれています。富む者と貧しい者、または支配するものとされる者のように色々な格差が存在する世界であっても、一つだけ全く平等なのは、この「死」ではないでしょうか。否応無しに迫る死があることを意識することで、自分の努力とは関係なしに一方的な恵みとして「命」が与えられていることに気づかされること、そしてその尊い命を感謝すること、これこそが知恵ある心ではないでしょうか。
つい先日のことです。家の中に迷い込んだ一匹の子バエを追いかけていた私に「パパなんでハエさんころすの?」と驚いた顔をして言いました。「害虫だからよ。(ハエが)近くにいると病気になるから」というと「(ハエからうつって)びょうきになるからころすの?がっこうの□□ちゃんがびょうきになったのもハエさんがしたの?ハエさんころすとびょうきなおるの?」「病気が治りはしないけどこれからかからなくなるかもしれないからね」というと「びょうきになるからぜんぶころすの?」というのでした。
ハエ一匹を殺すにも完全とは言いがたい理屈しか持ち得ない私達です。どうしたら正義の名の元に戦争を起こし、同じ人間を殺すことを正当化できるのでしょうか。過去の、今の、そしてこれからの殺し合いの正当性を4歳児にも分かるように説明できるのでしょうか。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

