苦楽歳時記
vol119 哀愁のパリ
2014-10-23
パリへ赴く機会があれば、黄昏のミラボー橋の上に立って、セーヌ河とエッフェル塔を眺望してほしい。
アポリネールがマリー・ローランサンとの恋に破れて、独りで佇んだ先がミラボー橋の上。欄干から身を乗り出して、傷心のかぎりをセーヌの流れに癒やそうとしたとき、うら哀しい追憶の詩は生まれた。
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ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ/われらの恋が流れる/わたしは思い出す/悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ/月日は流れ、わたしは残る
手に手をつなぎ/顔と顔を向け合おう/こうしていると/二人の腕の橋の下を/疲れたまなざしの無窮の時が流れる(『ミラボー橋』前半・堀口大學訳)
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時節は二〇〇一年の秋。日が暮れて、しばらくぶりに訪れたモンパルナスの場末にあるビストロで、メニューを開いてみると「詩人の魂」と命名された新しいスープが加わっていた。
舐めるようにして舌の上にころがすと… 香りの高い繊細な家禽のコンソメは、モリエールが『町人貴族』の中で、ジュールダンが夢にまで見た小鳩と七面鳥のブイヨン・スープを想起させる。
翌朝早くに、一九二〇年にパリへ渡ったルーマニア生まれのユダヤ系詩人、トリスタン・ツァラの詩を思い浮かべながら、涙雨の降るブローニュの森の中を歩んだ。彼の詩の中には、様々な女神の比喩が登場してくるので、いつしか心が平安に導かれていく。
カフェ・デ・ミュゼでムニュ(定食)を食してから、午餐のあとは、かつてトリスタン・ツァラが、住まいにしていたモンマルトルの丘を訪ねてみようかと心で描いた。
空はどんよりとしていて、薄墨色の雲がうなだれている。悩ましげなヴィオラの吐息がかすかに聞こえてくる。
哀愁のパリの街に生きるあでやかな色香が、狭霧(さぎり)のかなたへとしずやかに朽ちてしまった。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

