苦楽歳時記
vol115 思いがはせた人々
2014-09-25
八月三十一日、テレビ・ジャパンの『戦後史証言プロジェクト、日本人は何をめざしてきたか、知の巨人たち』。「第四回、二十二歳の自分への手紙~司馬遼太郎~」を観た。
学生時代に司馬先生から、蒙古とモスクワの旅に行かないかと声をかけられたことがある。詩人の竹島昌威一先生も参加するという。
なぜ、蒙古とモスクワとの組み合わせなのかと不思議に思ったが、今思うと、「ノモンハン事件」の調査のさわりだったのだろう。結局、費用が四十五万円と聞いていたので断念した。
テレビを観ていると、モンゴルを旅している司馬先生と竹島先生の写真が映っていた。往時、帰国したばかりの竹島先生から旅の話を伺ったことがある。
「司馬さんと並んでゴビ砂漠で立ち小便をした。満天の星がまたたくのではなく、夜空にバンと無数の星が張りついていた」
テレビを観ながら、懐かしい記憶が鮮明に甦ってきた。
二〇〇〇年に訪日したとき、竹島先生は白内障を患っていて元気がなさそうであった。別れ際に、一冊しか残っていない竹島先生の書いた小説を形見代わりに持って行くようにと促された。
司馬先生は既に他界されているが、堺屋太一先生にも二〇〇〇年の訪日以来、お目にかかっていない。
堺屋先生とは七〇年代後半に、『大阪文学振興会』の設立に寄与した同志でもある。六年前に死去した『大阪文学振興会』副代表の作家、横井 晃先生の葬儀にも参列できなかった。いずれも、お世話になった方たちばかりだ。悪疾に見舞われていなかったらと考えると、じくじたる念いがこみ上げてきた。
『大阪文学振興会』の事務局長は、横井先生の長女である横井三保さん。『大阪市立五条小学校』の先輩にあたる。
三保先輩とは、編集者時代に苦労をともにした仲だった。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

