苦楽歳時記
vol101 顔
2014-06-18
夕べ寝床で読んだ解剖学の本に、頭蓋骨の骨格を基にして顔と頭が区別されているので、額は前頭部といって頭の中に含まれると書かれていた。
僕は、額は顔の一部であると思っていたので、翌朝に鏡を見て「顔」にまつわるコラムを書いてみようと思った。
エブラハム・リンカーンの、「人間四十歳を過ぎれば自分の顔に責任を持たねばならない」という有名な言葉からヒントを得て、「男の顔は履歴書である」と大宅壮一は要約した。
男の顔が履歴書であるならば、「女の顔は請求書」であると藤本義一が唱えた。
顔で笑って心で泣くのは腹芸の一つで、日本人に多い表情であるが、心で泣くときには、やはり顔でも泣いてやりたい。
作家のブルバー・リットンは、「美しい顔が推薦状であれば、美しい心は信用状である」と描出したが、顔と心が必ずしも一致しないのは人間の性である。
ジョセフ・ケッセルの小説『昼顔』の主人公セヴリーヌは、昼は娼婦、夜は貞淑な妻を装う二つの顔を持つ官能の女。午後五時までには必ず家に戻らなければならないので、娼館の女将から「昼顔」というアダナをつけられた。
貞淑な妻としての顔よりも、「昼顔」がセヴリーヌの本当の顔だ。
世間を渡り歩くためには、人間はあらゆる状況に応じて、えびす顔にも、えんま顔にも、泣き顔にでも自由に形相を変える。もし、相手の顔色を見て、嘘かまことか明らかに真実が読み取れたならば、この世から嘘をつく者はいなくなる。
ともあれ、「文体は精神のもつ顔つきであるので、それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである」と、アルトゥル・ショーペンハウエルは『著作と文体』で述べている。
肉体の顔つきも、精神の顔つきも、共に偽りのない柔和な顔であるように心がけたい。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

