苦楽歳時記
vol100 父の日とキリストの教え
2014-06-11
何年か前の「父の日」に、サン・ペドロのポート・オ・コールへ家族三人で赴いた。新鮮なシーフードを目当てに、ポート・オ・コール一帯は、かなりの人出で賑わっていた。
雑踏の中で、僕たちはハーバーに面した少しばかりかしこまった瀟洒(しょうしゃ)なレストランを見つけた。店内は天井が高くて品性に満ち、周囲の喧騒を忘れてしまうほど従容(しょうよう)としていた。
テーブルに案内されてしばらくしてから、僕は料理の内容について若いウェイターに質問した。しかし、残念なことに係のウェイターは、あまりにも料理の知識に乏しく、みんなをがっかりさせてしまった。
次に、リーダー格のウェイターが現れて同じ質問をしたのだが、彼の意に介さない横柄な態度に辟易としてしまったのである。
いうなれば僕たちは、レストランの風格に釣られてしまったまな板の上の鯉である。こうなれば出てくる料理に望みを託すだけだ。
最初にサーブされたビスクは、イカの塩辛が裸足で逃げ出してしまうほど塩気が強いので返上した。肉料理も強烈にかたい。辛うじてシーフードだけは及第点に滑り込んだしだい。
お陰で父の日の団欒(だんらん)がぎくしゃくとしてしまったが、家族三人がレストランで過ごせたことは感謝なことであった。
ウェイターの接客態度やレストランの姿勢については、憤慨に堪えないほどだ。おそらくこの僕も、ウェイターと同年代の血気盛んなころであれば、「こんなまずいものが食えるか!」と、まくし立てて、プイっとレストランを出て行ってしまったことであろう。
美味しい料理は人と人の潤滑油となる。料理がおいしければつい話しがはずみ、連帯感が生じて幸せな気分が芽生える。
そのことをいち早く誰よりも周知していたのは、イエス・キリストである。キリストは事あるごとに民衆や弟子たちと食事を共にした。そして、その食卓で語られるイエスのたとえや教えは、社会的、宗教的に分裂した人々の心のよりどころとなっていた。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

