苦楽歳時記
vol93 吉行淳之介と本の読み方
2014-04-25
吉行淳之介さんが文芸誌に述べていた一文を、今でも、ふと思い起こすことがある。ずいぶん昔に読んだエッセーなので正確には覚えていないが、出来るだけ忠実に記憶の糸をたどってみたい。
絵画であれクラシック音楽のことであれ、所懐を求められると、「絵のことはさっぱり分かりません」、「クラシックは聴く機会が少ないので」と、即座に降参してしまうのだが、文学作品にいたっては、あれこれと所論を語る人が大勢といる。
その理由について吉行淳之介さんは、文章は生活に密着していて日常的であり、小学校から中学、高校、大学も数えると、十六年間も勉強してきたという自負があるからだという。
だが、このまことしやかに語られる素人の了見ほど、的外れのものはないというのだ。吉行淳之介さんは、余りにも荒唐無稽なこれらの見識に対して閉口してしまうらしい。
音楽は気に入った曲であれば、何十回、何百回と繰り返して聴くであろう。絵画においては、リビングルームの壁に掲げてある傑作にふれる度に、その感動を味わっている。ところが文学作品になると、一度読んだだけなのに、「あの作品読んだことがある」ということになる。
一度しか読んでいないのに、深く理解するのは及びがたい。ただ、ストリーを理解するだけに留まっている。読書は熟読玩味して数回読み返さないと、自分のものになりはしない。
「本を読むとき、人からもそう読んでもらいたいように、非常にゆっくりと読む」。と述べたのは、フランスの作家アンドレ・ジードだ。この、「非常にゆっくりと読む」の意味は、より深く味わうことと、また、作家として作品の考察をするためであった。
ただ単に筋書きを解するための読書であれば、そこに思考力や空想は伴わない。
「昔の人は本の中をじっくり自分の足で歩いたのです」。と歎いたのは三島由紀夫である。文学作品を読むにあたって、自分の足で歩いてみる醍醐味に取りつかれると、思考力と空想能力が培われて、独創的思索が芽生えてくるのである。
大学四年生のとき、一年間で千冊の本を読破したという朋友が自賛していたが、この自負心が教養のなさを露呈していることになるのだ。
まことの読書家は蔵書をこよなく恵愛し、ことあるごとに昔時に読んだ書物を繙読(はんどく)することに余念がない。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

