現代社会ド突き通信
1945年以来核に怯えていた私 第一回
2014-02-28
8年ほど前に、孫娘二人がうちに泊まっていたとき、上が5歳、下が2歳半でしたが、食事をしながら、わたしは月並みな質問をしてしまったんです。
「あなたたち大きくなったら何になりたい?」と。
姉のほうが、
「絵描き!」
と、叫びました。
すると、下の孫娘も、
「私も」
と、叫んだんです。
その後、上のが、わたしの顔をじーっと見つめて、
「オマは何になりたいの?」と訊ねたんです。
何になりたいと言っても、もう既に73歳になっていましたので、何になりようも無い。元々絵描きだったので絵描きと言ってもいいのですが、彼女たちと同じことを言いたくない。
今わたしはもの書きですが、もの書きといっても、彼女らの父親も祖父ももの書きですから、彼女たちに強い印象を与えられないと思ったので、丁度、あの時、わたしの町(パシフィック・パリセイズ)で組織した反核反戦グループに参加したところで、活動家と称してもいいだろうと、英語で「アクテイビスト」と言ったんです。
すると、上の孫が大きな目を真ん丸くして、
「何?オクトパス?」と怪訝な顔をしました。
下の孫は恰もわたしが今にも蛸に変わるのではないかとじーっと眺めてくれたのを思い出します。
然りしこうしてわたしはオクトパスならぬアクテイビスト活動家になりました。
わたしを何が、活動家にしたのかを話しましょう。
戦争とファシズムの経験9年、なんと無意味な緊張の続く生活をさされたことよと、今でも思い出すとぞうっとします。人間の生活ではない。小学校のとき、2、3年になると、だんだんと物資がなくなってきて、チョコレートなど甘いものがなくなっていきました。それが、むやみやたらと食べたくなったのを覚えています。着る物は長持ちしますから継ぎ接ぎをしても着ることはできます。が、食べ物が無くなって行き、成長盛りの子供達のお腹を満たさなくなってきたときは、情けなかったです。文句は言えない。贅沢は敵だという標語が流行っていたからです。いや軍部が国民の不満を誤魔化すために流行らせたのです。
わたしたちは栄養失調になり、骨と皮という状態でした。
1945年、広島長崎に原爆が落されました。私はそのとき、敗戦近く3ヶ月間鳥取の山間部、母の郷に疎開をしていました。その村で、山を畑にして食料を作るための開墾を毎日していて、敗戦後に、鳥取市にある、鳥取高女に1ヶ月通っていました。そのときに、原爆投下の広島から来た女学生のケロイドの傷をみて、本当にショックを受けました。それを核兵器とは報道関係も誰も教えてくれず新型爆弾だと報道されました。
8月15日に天皇がラジオで何かの宣言をすると聞き、ラジオがまだ作動している大叔父の家に集まったのですが、はっきりと聞こえません。その夜、村に鳥取市から帰ってきた人が戦争が終わったと教えてくれるまで、あの村の人は誰も何を天皇が宣言したのか分からなかったのです。
戦争が終わった、もう空襲の恐怖感から開放されたと、ほっとしたのを覚えています。
わたしは鳥取に疎開するまで、神戸に住んでいて、大阪の学校に通っていましたので、普通の爆弾の恐ろしさをよく知っています。芦屋の近くの魚崎にあった川崎航空の工場が空襲されたすぐのちに、夜の真っ暗な中をその破壊された工場の辺りで電線に火がついて火花が散っているその光で人間の死体や風船のように膨れた牛の死体を見ながら、阿修羅道を父と一緒に歩いて家に帰ったのを忘れられません。あの時、父がたまたま大阪に用事で来ていて、女学校まで迎えに来てくれたので、わたしは六甲にあった家に帰りつけたのです。あの光景は絶対にわたしのPTSDになりました。
やっと平和が訪れてリラックスしていた頃、もう原爆をどこにも使わないだろうと思っていた矢先、「一九五四年3月1日ビキニ環礁で行われた米国の水爆実験「ブラボー」は史上最大の15メガトン。広島、長崎原爆の1000倍のウルトラ水爆。第五福竜丸など日本の漁船千隻以上が被曝した。」(森住卓)
わたしはこれまで、アメリカがビキニ環礁で1946年7月から13年間に66回もしたことを知りませんでした。しかし、同時に南太平洋でイギリスやフランスがしていたし、中国は大陸で、またソビエトも内陸でやっていたのはメディアに発表されていました。
わたしは恐怖で震えていました。雨が降ると、ストロンチュームの雨が降るからと、母はいつも濡れないようにと注意してましたが、よく考えると、濡れてもぬれなくても空気中にも充満していたと思います。
わたし達若いものは、とても絶望的で、大きな国の政府がすることに無力を感じていました。
50年代半ば絶望的な状態で、神も仏もその実験を止めさそうとしてくれないことを学び、つまり、宗教に携わっている人々も何も政府に抗議していなかったんです。だから、わたしは無宗教になったと思います。共産主義のソビエットも中国もわたしの信用を得ませんでした。何も頼りになるものはなかったんです。
そんな絶望的なとき、新聞に、アメリカのノーベル化学賞と平和賞を貰ったライナス・ポーリングと、イギリスの平和ノーベル賞をもらった哲学者で数学者のバートランド・ラッセル卿が政府に何回も抗議して座り込みをやっている写真をみて、この人たちは私の神さんだと思ったことです。
「核の危険さを無くすのには、庶民に核を使った結果がどうなるかを教えることだ」
「正直は親切なり」
バートランド・ラッセル
私の好きな言葉です。これが私のモットーになりました。2002年の六月に、私の町の92歳のおじいさんが各家にビラをくばり、反核運動を始めたのに加わって私は72歳で活動家になったんです。もの書きというのは、言葉だけの人が多いですが、サルトルがアンガージュマンとわたし達の青春時代に説いたことが大いに影響したと思います。自分が信じていることを行動に移すと、気分がよくなるんですね。 (つづく)
*これは、2011年3月11日の2ヶ月後に書かれた。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

