苦楽歳時記
Vol.73 シェ・サトー
2013-11-27
昔、アーケディアに日本人が営むフランス料理のレストランがあった。オーナーシェフの佐藤 了さんは、内外の数々の料理コンテストで優勝や入賞の実績がある人だ。
一流シェフが作るフランス料理が味わえるとあって、本格的なフランス料理をまだ味わったことのない日系人や日本人が、こぞってアーケディアに集結し始めた良き時代でもあった。
僕は、フランス料理店『シェ・サトー』には、年に一度か二度お伺いする程度であったが、食後に佐藤さんと少しばかり雑話を交わすほどで、とりわけ深いつき合いはなかった。
けれども、佐藤さんとお会いする度に強く感じることは、温厚篤実で謙虚な人柄というイメージが、僕の心に刻まれていくのだ。
作家の陳舜臣(ちんしゅんしん)さんの随筆によると、一流の料理人はみな謙虚であるそうだ。
僕はメニューに載っていない料理を一週間ほど前に予約を入れる。電話で佐藤さんと直接話をしながら、料理の打ち合わせをしている際にも、僕の要望をじっくりと聞きとり、当日出された料理には一切の妥協がなかった。
未だに忘れがたいのはビスクをお願いした折に、秋季にふさわしく、わざわざ小ぶりのかぼちゃの中身をくりぬいて、ふたつきのスープの容器をこしらえてくださっていた。
その優美な「お・も・て・な・し」の心くばりに、僕はたまらなく感銘を覚えたのである。ビスクの味わいは、濃厚であるが決してくどくないビスク本来の風味と、滋味にあふれる丸い味わいが口の中に広がった。
同じくスープで心にのこっている味がある。それは「ビリビ」といって貽貝(いがい)のスープのことである。佐藤さんは『マキシム』(パリ)にいた頃に、ビリビをよく作ったといって懐かしがられていた。味覚の方はパリの貽貝と種類が違うせいか、随分と淡白に仕上がっていた。けれども、このあっさりとしている風味こそが、このスープ元来の旨味なのである。
二十四年間続けてこられた店を閉めて、二〇〇四年に引退された佐藤さん。僕は、彼が作ってくれた心づくしの料理を生涯忘れはしない。それは、晩秋の夕映えのように美しく、いつまでも、いつまでも僕の心の中に輝いている。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

