苦楽歳時記
Vol71 節度なき飽食
2013-11-14
僕の叔母は十八年前、七十一歳のときに訪米を果たしている。身長が百七十センチ、体重が百キロ。往時の日本人女性としては異様に大柄である。若い頃にバレーボールの選手として活躍した叔母は、身のこなしが軽やかである。
この年齢でこのサイズであれば、大方のアメリカ人は電動式車椅子のお世話になっているか、杖をつきながら歩いているだろう。健康な身体を与えられた叔母は、さぞ幸せだろうと思っていたら、女性として面白くないという。
下着から洋服、靴にいたるまで、自分に合うサイズが無かったからである。青年期に流行の最先端の洋服が着られない。全てが特注なので高くつく等々、意に満たないことばかりであったそうだ。
叔母が訪米した折にショッピングへ連れて行くと、娘のように相好を崩した。下着、ワンピース、スーツ、靴等、自分にピッタリのサイズが、これでもかと、山のように陳列されていたからだ。サイズだけではない。デザインや色彩も多種多様である。
叔母が滞在中曰く、「私が太っていても元気でいられるのは、粗食が基本であったからよ」。ビッグ・サイズのフアッションの洪水は嬉しいが、バッフェ・スタイルのレストランで、客が帰った後のテーブルの上を見ると、料理の食べ残しの山である。叔母は、節度なき飽食は人間を堕落させてしまうと嘆いていた。
とりわけ、アメリカ人の食文化に対する畏敬の念は希薄だと思う。近年のスピード化時代にともなって、インスタント食品の開発ラッシュが相次ぎ、雨後の筍のごとく、あらゆるファーストフードのレストランが出現し始めた。
折に触れて、冷蔵庫や電子レンジなどの家電メーカーと結託するかのように、冷凍食品やTVディナーという、アイデアばかりが先行した味覚無視の代物には閉口するばかりである。
思うに、アメリカが建国されて以来、国民はジャンクフードの数々に翻弄され続けているのだ。その代償が超肥満であり、肥満が引き起こす心臓病はアメリカ人の死因のトップになっている。
フランスの詩人、レミ・ド・グールモンは述べている。「自分の食べる物に、なんらの注意も払わないでいたり、そのような習慣が身についてしまっている人々は、食に関して無教養であるばかりか、人類の水準をぬきんでることを、拒否してしまっている人々に違いない」。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

