苦楽歳時記
Vol.67 ポード・レルケ
2013-10-18
中学二年生の春に、ボードレールの詩を読んで大層感銘を受けた。往時の僕には『悪の華』や『パリの憂鬱』といった詩集が、あまりにも難解すぎたので、よく理解できていなかったと思うのであるが、詩とはこのように書くべきものなのかと、しみじみ思ったことを今でもはっきりと憶えている。
詩を書くようになってから最も強く影響を受けた詩人は、アンリ・ミショーとエドガー・アラン・ポーの二人であった。それからリルケやランボー、ヴァレリー、ゲーテ、プーシキンとTS・エリオットなどからも詩作の手法を学んだ。僕が日本の詩人に興味を持ちだしたのは、その後である。
中でも、僕が真剣に私淑していたのはボードレールであった。僕はボードレール先生の美と反逆の結晶に、身震いしながらも引きずり込まれてしまったのである。また、ボードレール全集の翻訳を手掛けられた阿部良雄さんの絶妙な和訳には、腹の底から称揚したくなる名訳であった。
フランス文学の研究ごっこに戯れていたころ、かれこれ二十年前の話になるであろうか。イタリアやフランス料理の研鑚を積むべく、パリの一流レストランの厨房で、武者修業に励んでいた青年とパリで知り合った。彼は日本へ帰国して、いよいよフランス料理のレストランを始めることになった。
その彼とオペラガルニエの前で待ち合わせをして、近くのサロン・ド・テ(喫茶店)で世間話をしているうちに、日本で始めるレストランの名前を考えてほしいと僕に告げた。
スポンサーは彼の父親で、彼の将来はフランス料理店のオーナーシェフである。若い女性から中高年に至るまで、顧客の心をつかむような、エレガントでエキゾチックな店名をつけてほしいという。因みにロケーションは、東京の自由ヶ丘である。
数日後、僕は彼にレストランの名前を報告した。「ポード・レルケというのはどう?」。彼はしばらく考えて、「それはいい名前ですね!」と喜色満面で答えた。名前の由来は、フランスの詩人ボードレールとオーストリアの詩人リルケをつないだものだ。
それから数ヶ月が経って、僕のもとに悲報が届いた。彼は帰国後間もなくして、交通事故で亡くなったらしい。
僕は目を閉じてしばらくその場に佇んだ。そして祈り始めた。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(聖書より)。
静かに目を開けると、秋の声が美しく澄んでいた。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

文芸誌、新聞、同人雑誌などに、詩、エッセイ、文芸評論、書評を寄稿。末期癌、ストロークの後遺症で闘病生活。総合芸術誌『ARTISTIC』元編集長。








