キム・ホンソンの三味一体
Vol.19 器としての生き方
2013-05-28
先日、新しいローマ法王が選出され、フランシスコ法王が誕生したというニュースがありました。フランシスコとは、12世紀のイタリアの聖人「アッシジのフランシスコ」ですが、彼の有名な「平和の祈り」というものを思い出しました。
主よ、私をあなたの平和の器にして下さい。
憎しみのあるところに愛を、悪意のあるところにゆるしを、
争いのあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
いつわりのあるところに真実を、絶望のあるところに希望を
悲しみのあるところに喜びを、もたらすことができますように。
慰められるよりもなぐさめを与え、理解されるよりも理解し、
愛されるよりも愛することを求める者にしてください。
なぜなら自分が与えることによって与えられ、ゆるすことによってゆるされ
死ぬことによって永遠の命によみがえるからです。 アーメン
聖フランシスコは、富豪の家に生まれましたが、神のコーリングを受けて、一生を神と貧しい人々のために仕えた人です。この祈りを読む度、似ても似つかない自分を痛感します。ここで「器(になる)」とは、自分をあくまである目的のための道具として生きる、その役割を果たすことを第一に生きるということだと思います。
身近な例えでいえば、親という役割に当てはめられると思います。親は子という目的のために存在するわけですから、他人にどう思われても気にしません。また子の才能や障害を自慢したり嘆いたりしません。ただ子のために尽くして見守ることを何よりも大事にする生き方なのです。こうして書いてみますと器として生きることの難しさを改めて感じます。やはり完璧には無理だと言わざるを得ません。しかし、時々できている時もあるように思います。「慰められるよりもなぐさめを与え、理解されるよりも理解し、愛されるよりも愛することを求める」時というのは、まさに子供のことで我を忘れている状態のことでしょう。そしてその時こそ、私たちの心が平安と喜びと勇気で満ち溢れている時だと思います。だからこそ我々は子を育てるという苦労を背負いつつも、幸せだと言えるのではないでしょうか。
別の日、仕事でちょっと嫌なことがあり、今月2歳と8ヶ月になる娘の寝顔で癒されようと眺めていたら、急に娘が寝言で「パパ、ホントにバイバイ」と怒って言いました。こういうことで心が折れそうになるということは、きっと慰めを与えようとしないで慰められようとしたせいなのでしょう。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

