苦楽歳時記
vol. 25 奇遇
2013-01-21
一九九〇年に、『羅府新報』の長島編集長と知り合った。それからしばらく経って、羅府新報の一面コラム『磁針』に書くようになった。
お互いが知り合ってから二十年、ひょんなことから共通の友人がいることが判明した。長島さんは大学の同級生。僕は文芸誌『関西文学』と同人誌『推敲』で知り合った友だ。
それからだ、共通の友人探しが始まったのは。手がかりを頼りに、日本の文学仲間に連絡を入れた。見つけるのに約一年の歳月を要した。
誰からともなく、三人で同人雑誌を創刊しようと言うことになった。共通の友、菊池さんが費用を一手に引き受けてくれる。僕は同人雑誌『3』の編集後記の結びで、「まさか『3』を発刊することになるとは、夢にも思わない。三人の絆を大切にしたい。永遠に~~~ 」
昨年の夏、長島さんは訪日をされて、菊池さんと四十年振りに再会を果たした。僕も大病を患っていなかったら同行できたのにと、残念な思いが心の中を駆け巡った。
第2号の原稿の締め切りまで後わずか、菊池さんから依頼を受けた「巻頭エッセイ」と「詩数編」が、掲載されるのが今から楽しみだ。
当時、『羅府新報』には編集主幹がいた。『北海道新聞』から出向いてこられた太田さんだ。今から十年前、忘年会の席上で太田さんに尋ねた。「川崎彰彦さんという方をご存知ですか」。
案の定、彼は首を縦に振った。
北海道新聞社を辞して、後に作家となった川崎彰彦さん。僕の文学仲間の大先輩である。川崎さんは、早稲田の露文科卒業で、同期に五木寛之と後輩に作家で詩人の三木卓がいた。
往時、川崎さんと酒を浴びるほど飲んだ。二人とも蟒蛇(うわばみ)である。同期の五木寛之さんは流行作家。豪邸に住みポルシェに乗っていた。川崎さんは六畳一間、共同トイレの『蛍雪壮』に住んでおられた。
川崎さんは、後に『私の函館地図』を上梓した。その序文に、五木寛之さんは友情を育む一文を記しておられた。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

