苦楽歳時記
vol.18 別れ
2012-11-14
今、バディー・デフランコ(クラリネット)の『ニューヨークの秋』が書斎に流れている。
春がめぐり会いの季節とすれば、さしずめ秋は惜別の時節であろう。
プーシキンの詩で好きなのがある。
野末にのこる遅咲きの花は/あでやかな初花よりも愛(めず)らしく/かなしい夢のよすがともなる/ひとのわかれのときもまた/あまい出会いのときよりふかく/こころにのこることもある
「会うは別れのはじめなり」とは、元々は仏教の用語で『会者定離』(えしゃじょうり)と言う。時代には関係なく洋の東西を問わず、人間は出会う時の喜びよりも、別離の傷心の方がより深かったようだ。
谷崎潤一郎は綴っている。「だれしも別離は悲しいものにきまっている。それは相手が何者であろうとも、別離ということ自身のうちに悲しみがあるのである」(『蓼喰う虫』より)
井伏鱒二が林芙美子にすすめられて尾道に赴いた折、やはり林芙美子にすすめられて、一緒に三ノ庄まで足を延ばした。
島から離れるとき、彼らを見送る人たちが十人ほど岸壁に来て、船の出発の汽笛が鳴ると「さようなら、さようなら」と手を振った。
林もしきりに手を振っていたが、いきなり船室に駆け込んで、井伏に「人生はさよならだけね」と言うと泣き伏した。
後に井伏は、唐詩選の五言絶句『人生足別離』を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。林芙美子の言葉を意識していたのである。
僕は、このセピア色の名訳に、心が惹かれてならないのだ。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

