現代社会ド突き通信
vol. 1 真実を告げることの難しさ(1)
2012-07-14
一九六〇年四月、日本から絵を描きにニューハンプシャー州のマックドウエル・コロニーという芸術家村に船と汽車でやってきた。
そこで会った劇作家と結婚し、二男をもうけたが、次男が脳障害児のため、絵筆を折り、大きな赤ん坊の世話を上の子と合わせると二十年してきたことになる。当時ウイメンズ・リブが起こり、女性が自由を求めて湧き立っていた。だが、脳障害児の母親たちの自由は省みられず、置いてけぼりになったハンディキャップの社会を何とか解放さそうと努力した時、社会の裏面をいやと言うほど、味わった。その経験で当時の日米のメディアが表面的な記事ばかりで苛立ちを感じたのだった。
その頃から社会の矛盾を、真実を、紙に書き付け始めた。それがいっぱい溜まったのだが、どうしてよいか分からない。
脳障害の息子が施設に入ってからやっと集中してものを書く、ものを考えることができるようになった。溜まった書き付けをやっと小説の形にして応募して、新人賞や芥川賞(一九八六年)で小説家として認められた。その直後は新聞も比較的自由に書かせてくれた。
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私はここに恨み言を書いて読者の同情を買おうとしているのではない。私たちが敗戦後に味わったあの自由を、新憲法で保障された言論の自由を若い人々に失ってもらいたくないから書いているのだ。
小学校一年から女学校の三年まで、つまり敗戦までの九年間の軍国主義、戦中に育ち、空爆が毎日あるのに、日本は戦争に勝っているという大嘘の大本営発表をそのまま新聞やラジオが報じていた。お国のために死ぬのだと洗脳され、明日は死ぬかもしれないと死ばかりを考える毎日で、子供時代は憂鬱だったと平和になってから分かったことだった。
一九九〇年代になって、作家の故小田実さんがメディアが変わってきて、今までのように自由に書かせてくれなくなったと私に言っていたが、彼のように度々書かないから私には明確に分からなかった。ただ、一九九〇年に「朝日ジャーナル」から原発の批判を書いた原稿は載せられないと断られた時のショックは忘れられない。
私のみたアメリカの社会状態やアメリカ人がどう考えているかなどを日本の社会に知らせようとしても、日本の社会にはメディアにフィルターが付いていて真実の情報が伝わっていない。
(つづく)
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

