後藤英彦のぶっちゃけ放題!
第170回 天皇家の出自に関する諸説
2012-06-23
先代の昭和天皇は一九○一年四月二十四日、青山の東宮御所で産声をあげられました。数々の運命に翻弄され、日本史に特異の位置を占める天皇、といわれています。
天皇家の出自については、大別して日本古来の豪族説と大陸から侵入、大和を征服した騎馬民族説の二つに分かれます。
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日本古来の豪族説とは。
三世紀中葉か四世紀初め、崇神天皇が三輪山麓(奈良県桜井市)に大和朝廷を開いたという立場。筑紫(福岡県)にいた応神天皇が同じ時期、三輪山麓に進出、占領したという見方がもう一つ。
さらに皇位簒奪(さんだつ)説。
越前(福井県)か近江(滋賀県)にいた有力豪族が応神王朝と対決、皇位を奪ったというもので、豪族の首領は継体天皇、という指摘です。
応神王朝を破り大和朝廷の「体制を継いだ」天皇という意味で「継体」を名乗ったのだそうです。
この説を採れば、聖徳太子や今の平成天皇は継体天皇の系統ということになります。
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騎馬民族征服説とは。
満州(中国・吉林省)の松花江流域にいた扶余族が南下、高句麗(北朝鮮)と百済(韓国の西側領域)を建国、そのまま朝鮮半島に土着します。
扶余の一部はさらに南下します。
韓国の南端、任那(みまな)を基地に四世紀初め、対馬を経て九州北部に上陸します。
筑紫の豪族を征服、任那と合わせて倭韓連合王国を樹立。
五世紀初め畿内の大阪平野に進出し、三輪山麓の王族、豪族と対決・懐柔のうえ、彼らともに大和朝廷を建国します。
倭韓連合王国を治めたのは崇神天皇で、畿内に進出し大和朝廷を建てたのは応神天皇とみられています。
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初代・神武から九代・開花までは架空の天皇で、学問の対象になるのは通常、崇神天皇からといわれています。
崇神天皇の別称は御間城入彦(みまき・いりひこ)。
任那城(みまき)から日本に入った日子(太陽の子)という意味で、騎馬民族征服説ともぴったり符合しています。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

一九六四年時事通信社入社。旧通産省、旧農林省、旧大蔵省を担当後、ロサン








