龍馬ゆかりの人々
第50回 キャピタン・ジェームス その3
2011-06-18
香港を出航し上海へ向う途中の港で、関義臣らを偶然に発見した薩摩藩士の五代才助と浅倉静吾の日本人は、一体何者だろう。海外渡航は国禁であったはずである。五代と朝倉は、フランスへと渡航したはずの薩摩藩士・野村宗七ほかもう一人の薩摩藩士を、毎日、港へ迎えに来ていた。しかし、その日も野村らは入港しなかった。そこで、上海経由で日本へ帰国するという義臣一行を案内した。
義臣らは船は無し、乗船者一行の疲労とこの先の航海に不安を感じ、とにかく長崎に向って帰港する事になった。大海原を越えて、外国に渡航する事の困難さを経験した。しかし、かの薩摩藩士たちは既に国外へ出られたのだろうか。
義臣ら一行は空しく長崎に着いた。義臣は遺憾千万の想いであった。龍馬からも餞別を貰い、勇んで国を出た義臣の面目が立たない。しかし、大海の大波に乗り、隣国に一歩を踏んだことは、義臣ー行に計り知れない影響を与えたと察する。
キャピタン・ジェームスと義臣との関係は、その後も続くことになる。人との出会いとは摩訶不思議な糸に手繰られていくものだと、何か運命的なものを感じる。この件は後日にする。
海援隊に、こうした時代の怒涛の中、ぞくぞくと若者達が押し寄せる。陸奥陽之介、林建臓、吉井源馬, 関幸太郎、石田栄吉、大山郷八、鈴木雷次らの一群は、烈々たる勤皇党として龍馬の元に参集した。
義臣は関龍二と変名して入隊した。義臣は越前に次男坊として生まれ、山本の名に変名する。当時、長男以外は婿に入るか、変名するかした。本家、つまり嫡男のみが本名を名乗る。気楽といえば気楽であるが、他家に婿入りするか、本家で部屋住みにするか、その場の事情は大変なものである。義臣は、幸運にも福井藩に召し出された幸運の人なのだ。かたや、上りつめた栄光を手にした者もいる。たとえば後藤象二郎のごとき海援隊の総裁と評価される地位を築き上げた人物も出てくる。
時代の波に、時には怒涛のごとく押し上げられ、時には油断の隙に足をすくわれ奈落の底に投げ込まれる。歴史の本舞台で主役になるか、黒子に徹するか。人の運命の分かれ目は予測できない。裏舞台に真実が潜んでいるかもしれない。それをのぞき見ることも歴史の醍醐味であろうか。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

