龍馬ゆかりの人々
第45回 第三章 海援隊の規約
2011-04-28
関義臣の懐旧談を、3年前に私は義臣の曾孫・小原正義氏から手渡された。義臣が記録した110年前の手記は、昭和52年11月15日に小原氏が注釈と口語体にして出版した。今回は、それを数回にわたり記したいと思う。
全国から有志が集合して来る。昨今の若者や封建的な侍社会の底辺にある武士の活路を開くべく、慎吟していた者達が龍馬の所に集合してきた。龍馬はややもすると血気さかんな若者を統制すべく、規約書を制作した。世間で藩からあぶれた無頼漢と見做(な)されてはならない。新しい息吹の元である事を世間にアピールし、世間に受け入れられる集団としなければならぬと、規約書の制作にとりかかった。
一、本藩を脱する者、及び他藩を脱する者、海外に志ある者、この隊に入る。
一、隊長一人。
一、凡そ、隊中のこと、一切、隊長の処分にまかす。敢えて、或いは違背するなかれ。
一、若し乱暴、事を破り、害を引くに至りては、隊長、その死活制するも亦許す。
一、隊中、艱難(かんなん)相救い、困厄相護り、義気相責め、修理相糺(ただ)し、もしくは独断、過激、成敗を勢いに乗じて敢えて犯すなかれ。
一、凡そ、隊中、修業、分課、政法、火技、航海、語学のごとき、その志に従って之をとる。一、互いに相勉励、敢えて、或いは驕(おご)るなかれ。
隊中の食料の分配や金銭の誤魔化し、着服、賄賂を強く戒めた。
一、もし物品や金の不足があれば、隊長に申し出よ。建議の上、隊長、出納官の指示を得よ。
関義臣翁は克明に記憶している。「龍馬は誠に用意周到であり、しかも文明的である」と絶賛である。龍馬を一面は策士、一面は戦士、一面は航海業者、貿易商で外人にも信用厚く、盛んに砲銃や弾薬の輸入をした。後に義臣翁は、龍馬の先見の明の奥深さを発見し、ますます人材の喪失に涙する。
「あぁ龍馬在りせば」と想うのは翁一人ではない。私もその一人でもある。
関 義臣 1839年生まれ。越前福井藩士・政治家。男爵。藩校明道館で学ぶ。その後、長崎の坂本龍馬を訪ね、亀山社中に加盟した後に海援隊に所属。大阪府権判事をはじめ徳島県知事、山形県知事、貴族院議員などを歴任した。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

