龍馬ゆかりの人々
第43回 関 義臣(よしおみ)の回想
2011-03-07
更新日: 2011/03/07 | コラム名:龍馬ゆかりの人々
坂本龍馬没後、110年にあたり、関義臣(維新後は男爵)の懐旧談が偶然にも私の目の前に現れた。3年前、土佐藩士・飯沼権七直政(寛政12年2月21日生)、つまり我が夫・飯沼星光の4代前の墓参りに幕末史家・小美濃清明氏と品川の円真寺に行った後、品川の龍馬会の人達に面会した。その時、会員の一人が私に手渡したのだった。その人こそ、義臣の曾孫・小原正義氏だった。
品川が東海道中の上り下りの重要な関所である事は周知であるが、その昔、そこに繰り広がれた時勢と人間模様は未だに歴史となって講談や落語にもその姿を残している。その品川の宿に起きた物語をこれから数回にわたり記したいと思う。なにせ110年前に書かれたもので、難解な字と表現に時間が掛る。義臣が記録した110年前の手記は、昭和52年11月15日に小原氏が注釈と口語体にして出版した。今回は、それを正確に表記した。
第一章
海援隊の一員として関義臣の回想では、海援隊における龍馬の卓越した技量と開国を標榜とした思想は、幕末に生きる青年たちを瞠目させた。馳せ参じた初期の隊員の名前を義臣の見方で列記してみる。
後藤象二郎、中島作太郎、陸奥陽之助、岩崎弥太郎、安保春康、吉井源八、松井周助、関雄之助、白峰駿馬、山本好堂、菅野覚兵衛、高松太郎、安岡金馬、新宮次郎、長岡健吉、小谷耕造、佐柳高次、腰越次郎、三上三郎、野村惟章の面々とあり、別に佐々木三四郎と関義臣とある。
義臣は、同志たちがだんだん世を去っていく中、消息が絶えていく中、今昔の愛惜をひしひしと感じていく。義臣は越前府中(現在の武生市)の生まれ。槍術は民宮流、法は神道流、弓、鉄砲、馬術と武士の誉れを高めていた。義臣は「外国が我が国を捕って食おうと言うわけでもあるまい。通商貿易を求むるは誠に桔構である」と言う。「開国の国是を定むるは、主権者が幕府ではいかん。主権者は朝廷でなくてはならぬ」と考えていた。我々、志を同じくする者は坂本龍馬に馳せ参じるのだと長文の意見書を懐に長崎へ走った。義臣はかなり長文の意見書ではたして坂本龍馬が読んでくれるかと思いきや、龍馬は「北国の奇男子、我と徹頭徹尾同意見なり」と言ったという。海援隊の一員となったのは慶応2年の冬のことである。
*関 義臣 1839年生まれ。越前福井藩士・政治家。男爵。藩校明道館で学ぶ。その後、長崎の坂本龍馬を訪ね、亀山社中に加盟した後に海援隊に所属。大阪府権判事をはじめ徳島県知事、山形県知事、貴族院議員などを歴任した。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。