龍馬ゆかりの人々
番外編1-4「政治家としての龍馬」
2010-12-14
本紙隔週連載の飯沼信子著「龍馬ゆかりの人々」、第37回で触れられた“龍馬ゆかりの人”、京都祗園龍馬会初代会長・片岡幸嗣さんの論文を4日間連続で掲載する。
第4回 薩長同盟 生みの苦しみと同盟締結 by京都祗園龍馬会 片岡 幸嗣
慶応元年4月1日、長州再征伐が決定されると、一橋慶喜や松平容保らが小御所で将軍上洛と諸藩参勤交代延期について協議し、5月5日付けで諸藩出陣命令状が発行されます。9月15日に将軍徳川家茂は入洛し、朝廷に再征の勅許を奏請します。薩摩藩士・大久保利通と朝廷は諸侯会議で決めるべしとしましたが、幕府の反対で再征勅許が出ます。 これに対し大久保利道は激怒します。朝廷、松平慶永、諸藩からの反対で混乱する時に、坂本龍馬の手紙「(前略)日本をいま一度、洗濯いたし申し候」へと時代は動きます。
慶応2年1月8日に桂小五郎は伏見で西郷隆盛らの出迎えを受け京都薩摩藩邸入り、18日には 京都の小松帯刀邸にて会合をします。薩摩藩は長州へ協力を差し伸べるリスクを考えると長州藩から切り出すべきとし、一方の桂小五郎は窮地の長州藩から言出せば恥であり、 薩摩藩から話を出すべきと双方の意地とプライドのぶつかり合いで、話が纏らなかったと考えます。12月19日付けで桂小五郎が書いた手紙から推測すると、薩長共に、龍馬到着後に話を言出そうしたかも知れません。
坂本龍馬と三吉慎蔵は1月18日に大阪薩摩藩邸に入ります。京都では謀反人手配書が出回り警備も厳重だと聞き、薩摩藩士として京都に入ります。薩摩藩邸に到着した坂本龍馬は、帰国直前の桂小五郎から状況を聴き、「長州の體面云々一應は尤に承はれど元来薩長の連合は此日本を救はむ為なれば一藩の私情は忍ばざるべからずや暫く待たれよ」と憤慨します。西郷隆盛を促し軍事と朝廷への政治工作に関する薩長同盟が成立すると、幕府は動揺し出兵拒否藩も増え長州再征は失敗となります。
時代が倒幕へ向かう1月23日、坂本龍馬は寺田屋で奉行所の襲撃を受け負傷するも、お龍の機転と西郷隆盛指揮下の薩摩藩兵により救出されます。怪我から回復した龍馬は、桂小五郎の求めにより薩長同盟密約六か条に保証人として裏書を行います。
これ等の歴史から現代の我々が学ぶ事は、常に相手の事を考え、 互いに何を必要としているのかを考え、タイミングと最新の注意を払い常在戦場の心構えで意見を聞き、私情を捨て、しかし信念を持って行動する必要性がある事を再認識させられます。
筆者プロフィール
片岡 幸嗣 (京都祗園龍馬会初代会長)1974年生まれ。坂本龍馬との縁は、片岡家先祖代々の墓は、坂本龍馬が遭難した近江屋の裏、称名寺にあること、そして、「幸嗣」という名前は、伏見の寺田屋に隣接する寺でつけられたこと。
京都祗園龍馬会ホームページ http://ecobarri.jp/gion-ryoma/
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

