龍馬ゆかりの人々
番外編1-2 「政治家としての龍馬」
2010-12-14
隔週連載の飯沼信子著「龍馬ゆかりの人々」だが、今回は番外編。同コラム第37回で触れられた「第22回 全国龍馬ファンの集い岩手一関大会」にパネリストとして参加した“龍馬ゆかりの人”、京都祗園龍馬会初代会長・片岡幸嗣さんの論文を4日間連続で掲載する。
第2回 薩長同盟 長州征伐と薩長両藩 by京都祗園龍馬会 片岡 幸嗣
土佐脱藩浪士、坂本龍馬が京都に於いて行った薩長同盟があります。
池田屋事件を不服とする長州藩急進派軍勢は入洛し、御所を防御する会津・桑名・薩摩藩と衝突します。これが「禁門の変」で、 幕府は、御所へ発砲した長州藩を朝敵として第一次長州征伐を決行します。しかし、この時、神戸海軍操練所の一部塾生が長州藩急進派軍勢に参加していた為、元治元年10月、勝海舟は軍艦奉行罷免、操練所閉鎖されます。その際、勝海舟は薩摩藩家老・小松帯刀に坂本龍馬ら脱藩組の保護を頼み、また薩摩藩は神戸海軍塾塾頭・坂本龍馬と脱藩組塾生の操船技術を必要としていた為、保護をします。
「禁門の変」直後に坂本龍馬と薩摩藩頭取で幕府征長軍参謀の西郷吉之助は、知り合ったと考えられます。そして同時期に、西郷と勝は会談し、長州に対し緩和策で解決する事とし、幕府も長州藩に対し恭順条件を出すことで第一次長州征伐は終結しました。しかし、この条件が一部不履行となった為、将軍徳川家茂は、慶応元年4月1日、長州再征を決定し、同16日には西国諸藩の参勤交代延期を通達して長州再征へ動き出します。※恭順条件=藩主自判の謝罪状提出、山口城破却、都落ち中の公家5人の引渡し
一方、幕府に変わる組織に薩・長両藩が必要と考えていた坂本龍馬は、4月5日、土佐藩士・土方久元と面会し、同盟に向けて中岡慎太郎や田中光顕ら土佐脱藩浪士と連携します。4月25日、坂本龍馬は、 薩摩藩主・島津久光の薩長同盟了承を得る為、西郷吉之助と大阪から薩摩藩船胡蝶丸に乗り、九州の薩摩へ向けて移動します。 5月23日には九州の大宰府にて、八・一八政変(文久3年8月18日発生)で都落ち中の三条実美等諸卿や長州藩士・小田村文助と面会し、長州藩の同盟了承を得る為の活動を行ないます。※八・一八政変=公武合体派公家が、長州中心の尊王攘夷派公家を追放した事件
当時、京都では勤皇志士の取締り厳しく、長州藩・桂小五郎は、慶応元年4月8日、 潜伏先の但馬国出石を出て、大阪より闇夜に紛れて馬関茶屋平五郎の船に乗り込み、26日に下関に到着します。
筆者プロフィール
片岡 幸嗣 (京都祗園龍馬会初代会長)1974年生まれ。坂本龍馬との縁は、片岡家先祖代々の墓は、坂本龍馬が遭難した近江屋の裏、称名寺にあること、そして、「幸嗣」という名前は、伏見の寺田屋に隣接する寺でつけられたこと。
京都祗園龍馬会ホームページ http://ecobarri.jp/gion-ryoma/
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

