龍馬ゆかりの人々
番外編1-1 「政治家としての龍馬」
2010-12-14
隔週連載の飯沼信子著「龍馬ゆかりの人々」だが、今回は番外編。同コラム第37回で触れられた「第22回 全国龍馬ファンの集い岩手一関大会」にパネリストとして参加した“龍馬ゆかりの人”、京都祗園龍馬会初代会長・片岡幸嗣さんの論文を4日間連続で掲載する。
第1回 京都における政治活動拠点 by京都祗園龍馬会 片岡 幸嗣
江戸に次ぐ大都市の京都は、 江戸時代には伝統工芸品の生産、学問、文化の中心地で、各藩の流通文化交流の出先機関としての役割がありました。西暦794年の平安遷都以来、天皇の正式な所在地を示す玉座である高御座(※)が安置され、首都京都で開催される儀礼等を通じて、幕府は朝廷や公家と交流を図っていました。
西国諸藩を中心に藩邸(京屋敷)や用達商人が小規模ながら置かれ、藩政活動や現代の領事館的役割が果たされていました。また、交通面では、東海道五十三次、西国・山陰・奈良の各街道などが、京都から西日本や東海北陸方面に通じ、水運では、高瀬川等の河川が大阪湾に繋り、京都は、頻繁に人物や物流往来したので、情報・政治活動が非常にやり易い場所でありました。
この為、各地の志士達が集まり、坂本龍馬・中岡慎太郎を中心とする海援隊・陸援隊も土佐・薩摩・長州各藩邸、酢屋、寺田屋を拠点に政治活動を行なう事になります。
一方、幕府は朝廷との関係を保つ必要性から、二条城代と二条在番を設置し、出先機関として機能していましたが、安政時代に入ると幕府の権威が失墜し始め、政治は、武士中心の江戸から朝廷がある京都に移りました。
諸藩や志士達の京都に於ける政治活動が活発になると、京都の治安と体制維持の観点から幕府は、 政治総裁職(任命された藩主が持つ京都の藩邸を中心にして朝廷に政治活動を行なう)、 政治後見職(西町奉行所御池屋敷を宿舎として政治活動を行なう)、京都守護職(京都所司代を監督し、治安と御所警備を行う)の三職を、急遽設置しました。
また、治安実働部隊としては、松平肥後守預の後に旗本待遇となった浪士を中心にした新撰組、旗本家子息を中心にした見廻組、京都近郊大名を中心にした京都の火消しを担う交代御火消が編成され、左幕、尊王問わず、京都がクローズアップされる時代に入ります。 ※高御座=たかみくら 現在でも京都御所紫宸殿に安置されています。
筆者プロフィール
片岡 幸嗣 (京都祗園龍馬会初代会長)1974年生まれ。坂本龍馬との縁は、片岡家先祖代々の墓は、坂本龍馬が遭難した近江屋の裏、称名寺にあること、そして、「幸嗣」という名前は、伏見の寺田屋に隣接する寺でつけられたこと。
京都祗園龍馬会ホームページ http://ecobarri.jp/gion-ryoma/
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。

