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フレッド 和田 - 東京五輪を実現させた日系アメリカ人

フレッド和田(日本名、和田勇)

アメリカの実業家。日系二世。実業家としてもさることながら、1964年の東京オリンピックや1984年のロサンゼルスオリンピック招致に関わるなど、スポーツ界に多大な功績を残している。和歌山県御坊市名誉市民、和歌山県スポーツ振興功労者。








日本経済の夜明け

オリンピックはその国に多大な経済効果をもたらす。1964年の東京オリンピックは、今の日本にとって、計り知れないほど大きな意味があった。
新幹線が開通、カラーテレビの登場、首都高速道路の整備等、数え切れないほどの開発が進み、日本は、これをきっかけに急速な経済成長を遂げ、戦後、国際社会の中心へ復帰を果たした。国が総力を挙げて取り組んだ東京オリンピックは、まさに日本が誇りを取り戻すきっかけとなった。

そしてこの東京オリンピック開催は、ある人物の存在なくしてはありえなかっただろうといわれている。その人物の名は、フレッド和田(以下 和田)。日本人ではない、アメリカ生まれの日系二世だ。彼こそ知られざる、日本の恩人だ。彼はなぜ、祖国である日本のためにそこまで尽くしたのか?




フジヤマのトビウオ

1949年ロサンゼルスで行われた全米水泳選手権。橋爪四郎(左から2人目)、古橋広之進(通称:フジヤマのトビウオ、中央)、フレッド和田(右端)
1949年の全米水泳選手権大会、敗戦後、米国の占領下にあった日本。保有外貨もなし、民間人の渡航さえ厳しい状況の中、日本選手団の渡米が実現した。この大会で、古橋、橋爪ら日本選手は驚異的な泳ぎをみせた。その活躍は戦後、希望をなくした日本人を奮い立たせ、特にいくつもの世界記録を更新した古橋をアメリカ人は、「フジヤマのトビウオ」と呼び称えた。そしてこの選手達を陰で支えたのが和田だった。
当時、ロサンゼルスで青果店経営者として成功していた和田は、自宅を選手達に提供し、食事や練習用プールを手配するなどして、大会勝利のために万全な体制を整えた。また、この勝利は日本の敗戦で肩身の狭い思いをし、白人から「ジャップ」と呼ばれ、蔑まれてきた地元日系人の熱い期待に応えるかたちとなった。

フレッド和田、日本名・和田勇は、1907年、ワシントン州ベリングハムで生まれた。小さな食堂を営んでいた家庭は貧しく、4歳のとき、口減らしのために、和歌山県の祖父母のもとに引き取られた。少年期を過ごした漁師町で、美しい日本の風景と、祖父母ら家族の愛情に触れたことで、フレッド和田は、自分のルーツを発見することができた。この経験が後の和田の人生に大きな影響を与えた。




オリンピック開催への情熱

全米水泳選手権大会から10年が経ち、和田は、日本が東京でのオリンピック開催を目指していることを知った。しかし、敗戦後の東京が開催地に選ばれる可能性は低かった。ヨーロッパ諸国からの支持も得られない中、残されるは中南米諸国からの支持のみ。そこで、「フジヤマのトビウオ」を勝利に導き、かねてから日本のスポーツ界に貢献していた和田に、交渉人としての依頼が来た。外交経験もない上、外貨保有のない日本の状態から、一切の旅費をすべて自分たちでまかなわなければならない。ところがこのとき和田は即決していた。

「僕は東京オリンピックが開けるのなら、自分の店のことなどどうなってもええ思うとる。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。僕もマサ(正子夫人)も燃えないかんのや」

こうして、正子夫人とともに中南米10カ国を一ヶ月以上かけて廻る旅に出た。
当時の中南米諸国は、経済的にアメリカの強い影響下にあった。よって各国の票は、候補地のひとつ、アメリカのデトロイトに集まることが予想された。交渉は容易なことではない。和田にプレッシャーがかかる。しかし、どんな場でも和田の態度は一貫していた。
「私にも家内にも熱い日本人の血が流れております。日本は敗戦で厳しい試練を受けましたが、いまや平和な国によみがえり、オリンピックを開催できる力を持つまでに復興しました。東京オリンピックを開催することで、日本の人々に勇気と自信を持ってもらえると私は確信しています」
自分の行動と言葉に日本の未来がかかっている。そんな和田の大和魂のような気概にほだされたのか、各国は東京での開催に好意的な態度を示した。
そして、同年5月26日、ミュンヘンで行われたIOC総会。緊張が高まる中、開催地決定の最終投票が行われた。結果、日本は予想以上の過半数を獲得。開催の可能性は低いとされていた東京が、まさかの勝利。オリンピックは現実のものとなった。日本のスタッフが感激し、和田に駆け寄る。「和田さんのお陰だ。本当にありがとう」。和田の胸に熱いものが込み上げてきた。

1964年10月10日、新宿区霞ヶ丘の国立競技場に、ついに聖火がともされた。
それは単なる点火ではなかった。敗戦後の日本、その灯りは、傷ついた、日本国民の心に希望の光となって灯された。
7万3千人の大観衆が見守る中、日本選手団による入場行進、深紅のブレザーに純白のスラックスとスカート。その堂々たる雄姿を目の当たりにして、和田はつぶやいた。
「日本はこれで一等国になったのや。戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った」
和田夫妻の目は涙でいっぱいだった。




日米の架け橋となって

それから10年が経ち、67歳になっていた和田は、ロサンゼルスで人生最後の事業に取り組んでいた。戦前から苦労し生きてきた、日系一世、二世へ恩返しがしたい。ジョージ・アラタニ氏をはじめとする日系コミュニティの有力者らと協力しあい、1969年に敬老ナーシングホーム、74年に日系引退者ホーム(現敬老リタイアメントホーム)などいくつかの福祉施設を完成させた。

「この施設はアメリカ全体の日系人社会のシンボルになると思います。そして三世、四世へと時代を超えて受け継がれてゆくんです」

二世ウィーク祭りのグランド・パレードにて、観客の声援に応える和田夫妻
2001年2月、和田は93歳の生涯を閉じた。
フレッド和田が祖国日本のために生涯をかけた理由。それは、短い間ではあったが、幼い自分を育ててくれた日本と家族への感謝の心、そして、そこから生まれる日米の深い絆だった。
オリンピックを実現させ、日本の誇りを世界に示してくれたフレッド和田。その行動は、今の日本人が忘れてしまった情熱と誠意、そして思いやりに満ち溢れていた。晩年のインタビューで和田は、日本人に励ましのメッセージを送っている。


「日本は素晴しい国です。自信と誇りを持って、世界に挑戦してください」

我々日本人はフレッド和田の恩を胸に未来を生きていきたい。

筆者より一言 私は、留学生時代、フレッド和田邸に滞在していたことがある。戦後のヒーロー、古橋、橋爪両選手が滞在した同じ部屋に寝泊りし、貧乏だった私は、正子夫人にはいろいろと助けていただいた。私が和田邸に来た時、残念ながら、フレッドさんはすでに他界されていたが、晩年は、皆の前でよく「私の功績は、妻のお陰だ」と話していたという。お世話になった正子夫人に、この場で改めて感謝したい。
(文・新井淳蔵、写真提供・和田正子さん)

2013/08/31 掲載

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