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第4回年間賞 ポエム・タウン

<詩 成人の部 最優秀年間賞>


閃光  黒川彩歌


ああ 紅い あの線香のような光よ
いつもの このもんもんとした
熱い空気の最中
頭は老いていき
知りもしない写真のあなたは 只そっと
その赤い視線の中で揺れつづける
煙が辺りを支配して
いつしか僕は あなたみたいに
愚かになっていたのではないかと自身を見失う
でも この揺れている気持ちを
手から放すことはできないだろう
今日も明後日も
未来も 永興も
長い永い旅の途中に
光の中で
あなたを見た
あなたは生きていたんだ、と
ほっと安堵するのだが
それもまた夢
度重なる 夏のような夢
そう 私は未来に帰る

<詩 成人の部 ぺんてる賞>


ひとこま  中尾照代


薄青の空の下に見える
しおれかけた花
その姿は寂しそう 辛そう
恥ずかしそうかと思って近づいてみたら
むしろ満ち足りた表情をしていた

好ましいこと 好ましくないこと
さまざまある中で
精一杯生きて
自分の生を全うしようとしている
澄んだ誇りを漂わせて

すべてに応じ
すべてに動じない芯の強さと
健やかさ
現状に不満や煩い持って
揺れ動いているものに向けられる
静かな花の眼差し

目立たない色の小さな蝶が寄ってきて
花の回りを楽しく舞い始めた
密やかに生を閉じようとするものと
無心に生を継続するものとの
小さな触れ合いが
空の瞳を占領していた

凍った雲の上に  内 アリス


子供の頃 兄と二人きり
冬の越後に旅した
母の反対を尻目に
常ならば車のところ
なぜか汽車で

ガタコン ガタコンと音をたて
ゆっくり流れる車窓の風景は
輪郭を失った真白の世界
時たま見かける人影は
砂糖にたかる蟻のよう
ただ黙々と
白いかたまりと格闘していた
おおよそ子供にはつまらぬ風景だった

雲が凍って落ちてきたものが
雪だと思っていた その頃のわたし
空を見上げた
視界いっぱいにひろがる雪の素
まだ まだ 降り続くのだと悟った
幼な心に
ああ なんて寂しい
なんて美しい所だろうと
焼きついて離れなかった
そして 兄はこの景色を
わたしに見せたかったのだと悟った

わたしは越後からロスアンゼルスへ
兄は雨のよくふるシヤトルに
折につれ
凍った雲の上を想い出す

終局  シマダ マサコ


肉体が
無機質に変わるとき

喜び悲しみ

憎しみ
空しさをともに

棺を被う

白布が
熱気に舞い上がる

一瞬

ドアの落ちる


静けさ

伸び切ったゴム輪が  若林道枝


伸び伸びる切ったゴム輪が
ぼろぼろと
ページの間から
こぼれる
時と時代を区切って
しっかりと区分けして
長い眠りについていた箱の中で
ゴム輪がボロボロになって
もう
曖昧になった時代は
溶け合って
箱も蔵で溶け合って

老いた人とは
誰がどうきめるのか
503号の女には
時々這うような腰痛が戻って来る
504号の女は
時々捻じれる記憶の辻の真ん中に
立ち止まる

いつまでも座り込んでいる
鳥たちの集まる池の辺で
パン屑を投げる口笛と一緒に
もう忘れてしまった部屋番号と一緒に
もう去った妻と一緒に
肩にはもう立ち込めない
明日は何時までもあすであり


石を投げる力はある
石は微かな力を得て鳥となり
鳥は水を打ち
ただよう地上の枯葉を
地に止める
記憶はなくても
葉は流れる
503号と504号の谷間で
葉は流れる

夏の花  フィツジェラルド・ナヲ


涙を見たのは
始めての事でした
詩人原民喜氏の
小説「夏の花」を
読んで居る
あなたの…
うす紅色の
頬を伝わって
落ちた数十滴
真珠のようでした
出来るなら
取って置きたかった
あなたの
美しい涙を

「愛の基(もと) ~Love in the base~」   紗咲愛美


気付いたら 私はここにいた
今年も涙で始まった誕生日
毎年叶う事ない 私の願い

繰り返される涙の中で
今年はあなたが届けてくれた

見返りを求めずともあなたがくれる
そのメロディは 近くて遠い

心に寄り添う孤独の音
その怖さを 私が溶かしてあげたい
覚悟してて ウザい程の温もりを


気付いたら あなたでいっぱいだった
今年も独りで迎えるクリスマス
毎年願い続ける 同じプレゼント

無理にかき消す叫びの外に
今年はあなたが届けてくれた

見返りを求めずともあなたがくれる
そのメロディは 遠くて近い

心に沁み入る優しい音 その弱さを支え 抱きしめてあげたい 覚悟してて 面倒くさい愛情を

花嫁   黒川彩歌


花嫁がこちらを見て微笑んでいた
花嫁は身重らしかった
花柄の臼ピンクのドレスから
ひらひら
花弁が飛んでいた

微かに赤ん坊の甘い匂いがした
幼年の人になる前の匂いだ

花弁が風に吹かれ
私は無数の命の香りを受け止めていた

幾重にも咲かせたその人を
私は美しいと思った

風に吹かれて世界から誕生の声があがる

花は舞う

乾いた町で   宇都湖畔


故郷の洪水のニュースを聞きながら
乾いた町をみつめている

ブロワーも水も禁止され
町がだんだん汚れていく
サイドウォークの木の葉の上に
誇りが積もり滑りそう

きれいな町 サンタモニカ
かつての看板も泣いている

思わせぶりな雨雲も
乾いた風に流されて
通り過ぎていった

再会 (2)   シマダ マサコ


再び訪れる

あなたのためではなく
わたしのためと知りながら

空は今日も青い
夏の波はひかりにかがやく

あなたの遺灰はとまどうように
それから
ゆっくりと落ちていった

あの遺灰はもはや
ここにない

海流に乗って
何処へ行ったのだろう

わたしの遺灰を待たずに



詩の窓辺

第十回『海は光れり』加川文一の詩碑建立十周年を記念して

日系詩人、加川文一の散文を読んで - 文一が標榜している「具躰」をどのように解明すればよいのか -

新井雅之



加川文一は「人生が面白いように、人間が面白いように、また、生活が面白いように詩は面白い」と、随筆集『置時計』のなかで語っている。そして文一は、面白いとは、ものの具躰にふれて心を動かされた時の、こころの状態であると釈義している。
文一は詩作に興じるときの心得として、具躰というものを非常に尊重していたようである。詩は一見抽象的であるが優れた詩の特徴は、美の具躰を追求して止まないと断じている。而して文一は、美の追求にはおよそ二つの道があるようだと述べている。即ち、一つは知性によるものであり、もう一つは感性によるものであると道破した。



文一は物事の本質を捉えることによって、具躰の叫びと真実の在り方を突き止めようとしていたのであるが、文一が主張している「具躰」というものについて、筆者はいささか合点がいかないのである。
具躰とは、即ち抽象の対義語となる具象のことであるが、例えば、文一が活躍していた二十世紀半ばのリアリズム(自然主義)は、極美であるとか真実の写実を追究するだけでは、想像性を欠落させていると思われていた。
従って本来の「具躰」というものは、対象となるモティーフやテーマを思惟活動によって解体分析しながら、その本質をつかむための抽象行為を行なわなければならない。そしてさらに、抽象化された表現を損壊しながら、もう一度、具象性を注入するのである。端的に言えば、具象→抽象→再具象の手法によって、より深みのある想像が表白されるのである。



次に、知性と感性についての問題であるが、前文に記しているように、文一は美の追究にはおよそ二つの道があると述べているが、その二つが知性と感性である。文一は前もっておよそと断りを入れているが、筆者は美の具躰を追究しながら、詩を吟じる上で不可欠なものの一つに、形而下に属しているかも知れないが、「直観」(インスピレーション)というものをもう一つ付け加えておきたい。
文一はまた、「難解な詩のことを独り善がりの安易を示していて、詩とはおよそ縁の遠いものである」と強く非難している。比して表面解りやすい詩こそが、読者を深淵の前に立たせるのであると喝破するのであった。
文一の詩の定義は、畢竟(ひっきょう)するに具躰を追究することによって、より明解な詩を描けるが、抽象は難解であって、晦渋(かいじゅう)な詩は本質的にはたわいのないものであり、芸術とは無縁であると言うのである。
どうやら文一には具躰のなかの抽象、あるいは具象から抽象、そして再具象の観念が把握されていなかったようである。
同じく『置時計』(随筆集)のなかの一節で、文一は「知性」の概念を明らかに曲解している箇所がある。文一は「知性」の究極は超現実であると説いている。文一が言わんとしている超現実の意味が、今一つ良く理解できないのであるが、それがシュールレアリズム(超現実主義)であるとすれば、謬見も甚だしい。

文一は師と仰ぐウヰンタースの初期の作品にふれて、詩人とはかくあるべきものであると断言しているが、筆者はその一句を読んでみて戸惑いを隠せなかったのである。



吾は眼をもたず
吾が一撃は狂はず



ウヰンタースの詩の一句は、言わば文一の座右の銘である。けれども「吾は眼をもたず」という言辞の意味は、「具躰」を否定することである。また、眼をもたずして一撃に狂いがないということは、「知性」をも打ち消していることになる。
文一はホイットマンやエマーソン、そしてポーやブレイクといった米国及び英語圏の詩人の作品を主に味読していたようであるが、ボードレールやリルケ、そしてヴェルレーヌやランボーなど、欧州のデカダンスの詩人たちによる作品からは、殆どといってよいほど影響は受けなかった。情報の乏しかった往時の時代背景や、翻訳書の寡少な時世において、十四歳でカリフォルニアに渡ってきた文一においては、英語圏の、取り分け米国の詩人たちに深く興味を抱いたに違いない。



また、具躰をしっかりと捉える文一の詩業は、イェイツに私淑していたからこそ継承できた術なのであろう。そのように考えると、文一の散文のなかで遭逢(そうほう)する詩論的境遇は、文一の周辺ではかなりヒップであったのかもしれない。
文一の詩を読み、しみじみと味わってみる限り、日常の何でもない具躰をしっかりと捉えていて、淡々と媚びながら読者を惹きつけているのである。この一種のメソッドこそが、一度捉えた具躰を凝縮してみたり、破壊した後に観念的な普遍の眼でつかまえておいてから、再び具象の仕事に入って行くのである。この表現方法には、文一自身も気づくことはなかったのであるが、詩人、加川文一は、無意識のうちに自我の前に、人工的に緻密な「青嵐」(眼力)を投げていたのである。この「青嵐」こそが、具躰を超越している概念であり、具躰を凝視するための抽象であった。



従って文一が否んだ思弁的洞察は、詩作の段階で瞬時に反芻されてしまい詩人の魂は鋭く、美の「具躰」の追究へと移行していくのである。



年間賞の選を終えて

―選者 新井雅之

本年度の青少年の部は、応募作品が寡少のために年間賞が成立いたしませんでした。二〇〇〇年から始まりました「ポエム・タウン」(旧ポエムサロン)の、十五年の歴史の中で初めてのことです。
若い人が育たないと、「ポエム・タウン」は衰退してしまいます。残念でなりません。
成人の部は、最優秀年間賞とぺんてる賞は僅差です。甲乙つけがたい作品が並びました。迷いに迷いましたが、そんな中で、黒川彩歌さんの『閃光』が一歩抜きんでていました。
これからも、更なる飛躍を期待しています。良いお年をお迎えください。



祝辞

在ロサンゼルス日本国総領事館 堀之内秀久 総領事



ポエム・タウン第4回年間賞の受賞者の皆様、おめでとうございます。
多くの読者の方々と同様に私も、年4回のポエム・タウン応募作品の掲載を楽しみにしている一人として、この度の年間賞の発表に寄せて、お祝いを申し上げます。
詩、俳句、川柳、短歌等 それぞれの文芸形式の特徴を生かして、カリフォルニアのみならず全米より多数の意欲的な作品が寄せられ、審査をご担当された方々のご苦労が感じられます。
成人の部、青少年の部ともに、表現に技巧をこらし、斬新で感性豊かな作品群が発表されており、読者を唸らせます。
青少年の部では、思わず笑みがこぼれる作品が、個人や日本語学校等を通じて寄せられており、日本語習得の過程で、表現することの喜びや楽しみ、創作への興味を深め、効果的かつ継続的に日本語学習の意欲高揚に繋がっていることと確信致します。

受賞者の皆様、また、今回惜しくも受賞に至らなかった皆様におかれましても、海外で日本文芸の普及・振興に貢献しておられることに敬意を表すると共に、ポエム・タウンへの応募を機に今後も創作活動に積極的に取り組んでいかれますようご期待申し上げます。
ポエム・タウン第4回年間賞の受賞のお慶びと、創作者の皆様の益々のご活躍、ポエム・タウンのご発展を心より祈念申し上げます。



国際交流基金ロサンゼルス 日本文化センター 原 秀樹 所長



この度、「ポエムタウン第四回年間賞」を受賞された皆様、誠におめでとうございます。詩、俳句、川柳等の各部門で、皆様が遺憾なく実力を発揮され、その成果をこうして拝見できることは、世界での日本文化・日本語教育の普及に携わる身として、実に喜ばしく、かつ頼もしい気持ちにさせていただきました。
日本語はとかく難しい言語として捉えられがちで、新しい学習者を増やすのも、学習を継続していただくのにも高いハードルがあるように思います。しかし、ごく短い文章、特に俳句や川柳であれば、例え学習初心者でもある程度簡単に自分の気持ちを伝えることが出来ますし、学習が進めば更に深い感情も表現できます。その意味で、「ポエム」は非常に有用な日本語教材と言えます。
今回受賞された皆様も、惜しくも賞を逃された方も、引き続き創作活動に勤しまれ、この日本語という素晴らしい財産を発展させていただければと思います。
最後になりましたが、「ポエムタウン」の運営にご尽力いただいている日刊サン関係者の皆様、選考に携わっていただいている先生方に敬意を表しますとともに、「ポエムタウン」の今後益々のご発展をお祈り申し上げます。

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