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詩の窓辺・第八回/h2>

八木重吉

新井雅之


『雲』
くものある日
くもは かなしい

くもの ない日
そらは さびしい


『人を 殺さば』
ぐさり! と
やって みたし

人を ころさば
こころよからん


『太陽』
太陽をひとつふところへいれてゐたい
てのひらへのせてみたり
ころがしてみたり
腹がたったら投げつけたりしたい
まるくなって
あかくなって落ちてゆくのをみてゐたら
太陽がひとつほしくなった


『秋』
秋が くると いうのか
なにものとも しれぬけれど
すこしずつ そして わずかにいろづいてゆく
わたしのこころが
それよりも もつとひろいもののなかへ くずれてゆくのか


敬虔なクリスチャンであった八木重吉は、昭和二年(一九二七)肺結核のために二十九歳で夭折。信仰の詩を発表する一方で、対極的な、哀しみと怒りをあらわにした詩も綴った。
江藤 淳は、重吉の詩篇を文学作品としてみようとするかぎり、キリストは疑いもなく彼の「かなしみ」と怒りの、あるいは絶望の反映であると道破した。
僕はこの見解において、もう一歩踏み込んだ議論が必要であると思う。なぜならば江藤の論じる「反映」が、物事の一般性だけを捉えているからである。即ち、「反映」そのものが抽象的であり、粗放であるからだ。
例えば、泰西の文学作品にみられる人生の機微とキリストの関わりは、怒りと絶望の「反映」が描かれている。
同じく重吉が、キリストのなかに何を見たかは、「宗教的体験に属していて」、文学的にいえば実存的体験の所産であると江藤は弁じている。だが、あくまでも重吉の詩は宗教的体験のなかから、文学的に昇華したという事実を歪めてはならない。
また、重吉の詩はキリストを指しているのだが、キリストのみを見ようとする人々には見えないものを示している。それが重吉の詩篇の文学的な深さであると江藤は断じている。
正しく江藤の説に誤謬はないのであるが、重吉の詩篇には、真のキリスト者となりえて、聖書を熟知している者でなければ、また、見えない深さも同居しているのである。
最後に、富裕な農家の次男として生まれた重吉に対して、「かなしみ」を詠う源泉がどこに隠れているのかは、謎に包まれたままであった。けれども、重吉が書き残した草稿や感想、そして断片も含めて二千篇余りの詩を解読していくうちに、重吉には先天的な躁鬱気質が色濃く陰っている事実をつきとめた。即ち、欝の周期に陥ると「悲哀」を詠い、『人を 殺さば』や『太陽』を書いた折りには、躁状態であったと思われる。


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