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JANMへ行こう!! vol.62 - 強制収容ではなく自主退去を選んだ日系人家族たち①


今月のガイド
マス・マツモト さん

日系二世。第二次世界大戦中は、強制収容所には入れられず、家族と共に自主退去に応じて、ユタ州へ移動した。高校の教師を退職後に、JANMでボランティアを始める。教師経験のある他のボランティアたちと協力して、JANMでボランティアをする人たちのためのプログラムを作成する。




新天地での苦難



1900年前後、和歌山県出身の祖父は横浜へ移り、米を販売していました。祖父はその仕事があまり好きじゃなかったようで、横浜に祖母と二人の息子を残してアメリカへ渡る決心をしたようです。
最初はハワイへ行き、それからアメリカ本土へと移動しました。農場の収穫期になると多くの労働者が多く必要とされるので、祖父は収穫期を転々と渡り歩く仕事に就きました。まず南カリフォルニアから始まり、夏はアイダホ州の農場へ、そしてユタ州へと南下しました。ユタ州ではバーンズさんという人が日系人に土地を貸していたので、祖父も土地を借りて農業を始め、落ち着きました。

父と叔父が17歳、16歳となると、祖父からアメリカへ呼び寄せられました。祖母は日本に残り、一度もアメリカへ来ませんでした。親子3人で農業をして、父たちの働きぶりをみて安心した祖父は、1933年頃に日本へ帰国しました。この間、1924年に父は結婚するために和歌山県へ行き、母と結婚して、その後は母を連れてアメリカに再び来ました。
1934年、祖父が亡くなったので、私たち家族は全員で日本へ行き、半年ほど日本に滞在しました。アメリカでは大恐慌のため、ユタでの農業は全くダメでした。そこで両親はユタへ帰る代わりに、カリフォルニア州グアダルーペにいた“レタス王”と呼ばれた南弥右衛門さんの農場へ行き、レタスやブロッコリーを作りました。私たち家族は、1934年から41年まで南さんの農場にいました。

日米が開戦した41年12月7日の晩には、南さんのようなコミュニティリーダー、教師、住職などがFBIに逮捕されました。父はコミュニティリーダーではありませんでしたが、42年になるとすぐに逮捕されました。南さんの農場では労働者たちをまとめる役職に就いていましたし、日中戦争の時は、日系人たちからお金を集めて日本政府に戦争支援金を送っていたようです。

日系人が収容された場所は2種類あって、一つは多くの日系人が入れられた強制収容所。もう一つはアメリカ司法省が管轄する拘置所です。父はノースダコタ州の拘置所に42年9月まで入れられましたが、その間に手紙でのやりとりはできました。しかし検閲が入ったので、父からの手紙の幾つかの箇所は読めないように消されていました。
父からの手紙に、ユタ州に住む叔父を頼るようにと書かれていました。叔父は鉛鉱山労働者でしたが、日米開戦後に日系人全員が解雇されたので、ユタ州シラキュースへ移り、share crop(シェアクロップ、当時の日本人は土地を所有できなかったので地主から土地を借りて農業をした)をしていました。叔父の奥さんはアメリカの法律でアメリカへ来ることが許されず日本に残ったままだったので、叔父が私たち家族を面倒みるということになりました。

当時のアメリカ政府は、西海岸で暮らしていた日系人に自主退去を命じました。しかし、ほとんどの日系人が内陸部より東に知っている人などいなかったので、多くが西海岸に留まるしかありませんでした。それに42年頃、当時のワイオミング州知事は「もし西海岸のジャップがワイオミング州に来たら、州内の全ての木に吊るされるだろう」と発言したそうです。一方、日系人受け入れを申し出たコロラド州へは多くの日系人が移動しましたが、当時のラルフ・カーコロラド州知事は、これが原因となって次の選挙では落選してしまいました。


縁者を頼って自主退去



自主退去をした日系人たちが、当時の体験を語ったパネルプレゼンテーション。右から二人目がマツモトさん
日系人の自主退去者数は4889人で、その内1963人がコロラド州へ、1519人がユタ州へ移りました。退去する人数が多ければ多いほど、強制収容する人数が減り、アメリカ政府が負担する費用も削減できるので、多くの退去者を期待していたようですが、自主退去政策は失敗に終わりました。そこで政府は42年3月末に自主退去期間を打ち切りました。
私たち家族はユタに叔父がいたので退去できましたが、もし誰も知り合いがいなければ、カリフォルニアに留まり、強制収容所へ行っていました。私の妻の家族は、他州に知り合いもいなかったので、身を寄せる場所もなく収容所へ行くしかありませんでした。

42年3月末、私たち家族はグアダルーペを暗くなりかけた頃に出発して、18歳の兄が一晩中、車を運転しました。他にもグアダルーペやサンタマリアから集まった12の家族が一緒にキャラバンを組んで東へ向いました。誰かがこの方法が良いと教えてくれたそうです。
私はこの自主退去の移動中、とても不安でした。なぜなら、いろいろな噂があったからです。例えば、日系人を東に移動させないようにする警察官たちがハイウェイにいて、日系人を見つけたとたんに来た場所へ追い返すとか、ガソリンや食べ物も売ってもらえないなど、さまざまな噂が飛び交っていました。カリフォルニア州を出発する時に、みんなから「気をつけて」と言われました。

グアダルーペを出発した翌朝、ハイウェイにある休憩場所に停車して、みんなでおにぎりなど朝食をとっていました。そこに白人のユタ州ハイウェイパトロールが通り過ぎました。しばらくしてパトロールの警官が私たちのところへ引き返してきました。「どこへ行くんだ?」と警官に質問されたので、「ソルトレイクシティです」と答えました。ある家族が警官におにぎりを渡すと、彼はおにぎりを食べて、「グッドラック」と私たちに言って去っていきました。13台の車のライセンスプレートがカリフォルニアで、全員が日本人の顔でしたから、警官が戻ってきた時はとても不安になりました。しかし、とてもナイスな警官だったので、私たちは少し落ち着きました。当時、ある白人は日系人にとても同情をしていましたし、人それぞれでした。
無事にソルトレイクシティに到着しましたが、現地の日系コミュニティの人々から、カリフォルニアから来た私たちはあまり歓迎されていないようでした。

(つづく)

写真・文・構成 Tomomi Kanemaru(日刊サン)


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JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

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