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JANMへ行こう!! vol.61 - 帰米二世のそれぞれの戦後


今月のガイド
トヨコ・ムラカミ さん

帰米二世。アーカンソー州ロアの収容所で生まれる。8人兄弟姉妹の7番目。クリスマスシーズンにJANMでボランティアを始め、その後、ギフトショップのスタッフとしてJANMに勤務。退職から1週間後には再びボランティアとして活動を開始。2008年、ミュージアム・ファミリー・スピリット賞を家族で受賞した。




日本へ帰国する組



JANNの1階には、博物館に貢献したボランティアたちに贈られる各賞の受賞者たちの名前が記載されたパネルが展示されている。
「私の家族は、戦前はロングビーチで暮らしていました。父は広島県出身の日系一世で、母は二世です。日米間で戦争になり、西海岸の日系人は収容所へ送られたので、私の両親と兄弟姉妹はアーカンソー州のロアに入りました。私はそこで生まれました。父は「絶対に日本は負けない」と言って、日本に帰ることを決めたので、途中からツールレークの収容所に移されました。“日本へ帰国する組”の一世やその家族たちはツールレークに集められました。
私はまだ小さかったので、ほとんど何も覚えていませんが、一つだけ記憶がありました。それは雪で遊んだ記憶です。戦後、ロサンゼルスで暮らした私は雪を見たことがなかったので、「雪の中で遊んだなんて私の想像かしら」と思っていました。けれどある日、兄弟に話すと、それはツールレークの収容所での記憶だったことが分かったのです。

戦争が終わると、私たち家族には戻る場所がアメリカ国内にはありませんでした。しかし、父がアメリカで溜めたお金を広島県にいた伯父に送り、伯父と一緒に家を買ったというので、船に乗り、日本へ行きました。二世だった母方の伯母たちは「日本へ戻ってもダメだから」と私たちの日本行きには反対だったそうですが、父の思いは強かったそうです。
広島に到着すると、その家には伯父一家が暮らしていました。私たち家族は両親と兄弟姉妹8人の合計10人だったので、長い間、一緒に暮らすことはできませんでした。しばらくして私たちは宮島のあたりに移りました。一番上の姉と兄はすでに大きかったので、呉にあった進駐軍の基地で日英両語の通訳として働き始めました。特に兄はアメリカへ戻りたかったようで、自分から志願して立川にあるアメリカ軍に入隊しました。

徐々に兄も姉もアメリカへ戻り、私も20歳になると、すぐ上の姉と共にアメリカへ帰国しました。両親も子ども全員がアメリカへ帰国したので、アメリカへ戻る決心をしました。ロサンゼルスでは兄たちが家族で住める大きな家を借りてくれて、そこで再びアメリカでの生活を始めました。

私はまずは英語を勉強しようと、ロサンゼルスにあった帰米二世たちが通う英語学校で勉強しました。しかし一緒に通っていた兄が通わなくなったので、私も他の兄弟も学校へ行けず、そのままやめてしまいました。私は帰米ですが日本語も英語も“パラパラ”で…、後になってから娘たちに英語を教えてもらいました。
学校をやめた私は植木屋に勤めて植物の世話をしました。他には日系のボーリンググループに入り、そこで主人のフレッドと出会いました。私の兄弟姉妹も彼の兄弟姉妹も入っていたので、みんなでボーリングをしながら、戦中戦後の話をしていると、兄たちが1946年の日本行きの船でムラカミ兄弟たちと遊んだことを思い出しました。戦中に主人の家族も日本への帰国を決めたので、アーカンソー州ジェロームの収容所からツールレークに移されたそうです。あれから20年以上が経ち、ロサンゼルスで再会するなんて、驚きでした。これがきっかけで私とフレッドはつきあうことになり結婚しました。


家族でJANMボランティア



JANMボランティアが16年目のフレッドさん(左)。フレッドさんの兄、ジョンさん(右)は10年以上もJANMでボランティアをしている93歳。
主人の姪がJANMのスタッフとして働いていたことがきっかけで、私の家族と親戚がJANMでボランティアを始めました。なかでも、私と上の娘はボランティアからJANMスタッフになりました。私は8年間勤めて退職し、今は再びボランティアに戻りました。なんだか不思議な流れです。
ボランティアをきっかけに、それまで知らなかった日系史を学び、9年ほど前には自分が生まれたロアや主人の家族が収容されたジェロームも訪問しました。訪問時、ロアの収容所はコットン畑になっていて、私が生まれた場所でしたが、「懐かしい」感じはしませんでした。しかし、JANM館内に展示されているバラックを見ると「両親はどんなに苦労しただろ」と、両親を想うのです。


ムラカミ家の戦後



1946年、トヨコさん家族と同じ船でアメリカから日本へ向ったムラカミ家は、両親の実家があった和歌山県へ行った。長男のジョンさんは通訳として東京のアメリカ軍に勤め、家族が住める家を買おうとお金を貯めた。そして神奈川県に一戸建てを購入。「16人兄弟の長男だったので、下の面倒を見るのが当たり前でした。家を買って肩の荷がおりて、やっと私も結婚できました」。1955年にアメリカへ戻り、ガーデナ市で日本からの輸入品を扱う店を開いた。
フレッドさんは日本語があまり得意でなかったので、日本の学校では弟と同じ学年からスタートした。17歳になるとアメリカ軍に勤める兄が仕事を世話してくれるというので上京。1954年、すでにアメリカに戻り庭師をしていた他の兄がフレッドさんを呼び寄せた。兄と共に庭師をしていたが、怪我をして民間会社の庭師に移行した。「私も英語も日本語も“パラパラ”ですが、私はラッキーでした。仕事でもアメリカ軍に徴兵された時も、みんなにヘルプしていただきました」とフレッドさん。


写真・文・構成 Tomomi Kanemaru(日刊サン)


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*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。




JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

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213-830-5645

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