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特集記事



JANMへ行こう!! vol.60 - ターミナルアイランダーが語る今はなき古里②


今月のガイド
山本・健次・登 さん

98歳、日系二世の山本健次さん(左)と妻で帰米二世の英子さん。二人ともターミナルアイランド出身。ターミナルアイランドに日系人の記念碑を建てるプロジェクトに尽力し、2002年に碑は完成。元住民たちで作った会「ターミナルアイランダーズ」の会員。撮影・山本ユウジ・ティムさん)




友と再会・妻との出会い



「ムラカミ マーケット」店内。たくさんの生鮮食料品や缶詰、生活必需品の和食器なども販売した。子供は山本さんの弟たちと甥。成人男性は日系の従業員たち。
中学高校はサンペドロまでフェリーで通ったので、日系人以外の友人がたくさんできました。私は冗談好きで誰とでも話すので、「ケンジ」「ケンジ」と友人たちから慕われて嬉しかったですね。

サンペドロ高校アメフト部所属。金銭的余裕がなく、ユニフォームは学校から借りた
高校では、憧れだったアメフトのクラブに入りました。私は体が小さかったので小柄の選手が所属する「クラスC」でプレーしました。チームメートは日系人ばかりでしたよ。他の人種は大柄でしたからね、彼らは別のクラスに所属しました。私たちは他校の白人チームと交流戦をしたり、近くの海軍基地の港に停泊した戦艦の兵士チームの練習相手をしたりと楽しかったです。ある時、私は他の選手から強烈なタックルを受けて頭を強く打ってしまって、漫画に描かれるような星が、頭上に本当に見えましたよ(笑)。

高校卒業の翌年1937年、母が亡くなりました。姉が父に叔母(母の妹)との再婚を勧めたので父は1940年に和歌山県へ帰りました。私と弟の3人はターミナルアイランドに残り、義兄(姉の夫)の元良さんの貸家で暮らしました。

私は高校生の頃から義兄が経営していた「ムラカミ マーケット」を手伝っていたので、卒業後もそこで荷積みや販売をして働きました。運転免許を取ると、ウィルミントンからサンペドロまで日系人が暮らす地域をトラックでまわり、日本食や生活必需品を販売しました。妻の英子の家も販売ルート上にありました。

山本一家。父親・岩松さん(左端)、母親・サイさん(右隣)
英子の兄の明仁(写真右上)とはミルドレッド・ワリザー小学校で同級生でしたが、明仁は10歳になると日本で教育を受けるために母親の実家の愛媛県へ送られました。しかし15歳でターミナルアイランドへ戻ってきたんです。ある日、明仁を見かけたので「明仁!」と呼ぶと「おっ、健次か!」ってすぐに返事があったので嬉しかったですね。

1940年には8歳で日本へ送られた英子も戻ってきました。子供の頃は男子女子は一緒に遊びませんでしたからね、英子のことは全く覚えていませんでした。だから明仁の妹が戻ってきたと聞いて、美味しい桃を持って明仁を訪ねました。それがきっかけで、英子との交際が始まりました。



48時間以内の立ち退き命令



山本さんと英子さんの結婚写真。撮影したのはマンザナに収容されていた日系カメラマンの宮武東洋さん。英子さんが白黒写真に自ら色をつけた
1941年12月7日に日本軍が真珠湾を攻撃したので日米開戦となりました。1942年2月19日、ルーズベルト大統領が「大統領令9066号」を発令し、西海岸に住む日系人約12万人が強制収容されることになりました。

ターミナルアイランドはアメリカ海軍基地に近かったので、立ち退き命令は他の地域よりも早く、2月25日に海軍から全住民に出されました。与えられた時間はたったの48時間。日系人も白人もみんな急いで荷物を整理して、できるだけの財産を処分し、避難場所を確保しました。私は「ムラカミ マーケット」の商品をトラックで運び出して倉庫に入れ、ロサンゼルス市内の親戚の家に移動しました。行き場所がない日系人は、リトル東京の高野山のお寺やボイルハイツの中央学園に行って集団生活をしました。みんな、ターミナルアイランドの住民はマンザナへ収容されることを知っていたので、その日を避難先で待ちました。

1942年4月、私たちはバスと汽車の二手に分かれてマンザナへ送られました。私たち家族は汽車で移動したので到着は夜中でした。ターミナルアイランドの住民は、みんな「ブロック11」に入れられました。なぜアメリカ政府は、こんな所に私たちを送ったのかって思いましたよ。マンザナは全く違った場所でした。海もない砂漠だった…。

収容所で暮らし始めて1年後、私と英子は収容所内で結婚しました。ウェディングケーキもあるレセプションをして、結婚指輪はサンタモニカから取り寄せました。結婚後は「ブロック3」に移り、二人での生活が始まりました。



人が大好きなグリーター



1992年に、ターミナルアイランドの展示がJANMで開催されたので、ボランティアガイドをしました。その展示が終了すると「グリーター」として来館された方々をお迎えするボランティアをしました。私は人と話すのも冗談で笑ってもらうのも大好きです。来館者の方は館内に入られた直後は表情が固いので、私が日本語や英語で冗談を言って、笑顔になっていただいたのを覚えています。


インタビューでは山本健次さんのご家族(秀子さん、ティムさん、智子さん)にご協力をいただきました。ありがとうございました。写真は山本さん家族からのご提供です。
写真・文・構成 Tomomi Kanemaru(日刊サン)


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入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。




JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645

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