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JANMへ行こう!! vol.46 - 家族が“刑務所キャンプ”に送られた理由を知りたい


今月のガイド
ロイ・サカモト さん

1947年サンタマリア生まれの日系二世。日系一世の父と帰米二世の母を持つ。長兄はヒラリバーで、次兄はツールレイクで生まれる。エルセグンドにある空軍基地内でファイナンシャルの仕事をし、50代半ばで引退。引退後は、友人でJANMボランティアのリー・ハヤシさんの勧めもあり、2005年からJANMでガイドとしてボランティアを始める。



―サカモトさんは、ご両親が強制収容されたツールレイクについてリサーチを重ねてレクチャーを行っていますが、リサーチを始めたきっかけを教えてください。

1950年代、私がまだ子供の頃、両親は“キャンプ”で友達ができたとか、“キャンプ”の話をいつもしていました。子供だった私はそれを聞いて、

「いつ、僕たちは“キャンプ”に行けるの?」

と尋ねました。すると父は私をじっと見て、

「お前はバカか?“キャンプ”というのは楽しい所じゃないんだぞ。刑務所なんだ」

と、言いました。私は、

「え、“キャンプ”がそんな所だなんて知らなかったよ…」

と、答えました。父は、

「“キャンプ(収容所)”と呼ぶけれど、本当は刑務所なんだぞ。日本人や日本人の両親を持っている人たちは、大きな“刑務所キャンプ”に送られたんだ。ある人たちは、4、5年間もそこに入れられたんだよ」

と、父は言いました。そこで私は、

「お父さんは何か悪いことをしたの?」

と、尋ねると、

「何も悪いことなんかしてないよ。ただ、お父さんたちが、お父さんたちの出身地の人々(日本人)に似ているというだけの理由で、刑務所に入れられたんだ」

と、父は答えました。

小さい頃の父との話がきっかけとなって、日系史に興味が湧いてきました。高校生になると、アフリカ系アメリカ人が公民権運動を始めました。それを見ながら、「中国人や日本人などアジア系人種の場合は、これまでどうだったんだろう?」と疑問が出てきました。
中国人への扱いは、日本人よりひどかったんです。中国人は、日本人より約40年も前の19世紀前半にアメリカへ来ました。当時、中国人はアフリカ系アメリカ人と同じ扱いをされていました。例えば、何人かの中国人が殺されても、「だから何?」というような風潮でした。“人間”として考えられてなかったので、動物を殺したのと同じ感覚だったようです。

私が大学に進学した頃は、公民権運動のデモ行進が盛んに行われていて、ベトナム戦争もあったりと、本当にさまざまな出来事があった時代でした。私は公民権運動にも興味がありましたし、歴史も好きでしたね。
1960年代までアメリカの白人社会では、肌に色がついた人々は、白人と同等ではないと考えられていました。アフリカ系アメリカ人の祖先は、人間としてではなく“所有物”としてアフリカから連れてこられました。アメリカには、ホワイト社会とカラー社会があり、この二つは、教育、仕事、住居、全てにおいて平等ではありませんでした。

例えば、アフリカ系の人たちは、「カラー」と書かれたトイレしか使用できませんでした。もし「ホワイト」と書かれたトイレを使用した場合、暴行されたり、あげくの果てに檻の中でした。なぜなら、「アフリカ系の人々は『カラー』と書かれたトイレしか使用してはいけない」という法律を犯した
からです!バス、レストラン、映画館などにも「カラー専用」の座席がありました。

第二次世界大戦や朝鮮戦争後、アフリカ系、ラテン系、アジア系の人々は、「戦争でアメリカのために戦って死ぬのなら、自分たちも平等に扱われるべきだ」と立ち上がったのです。こうやって公民権運動が始まりました。1955年から1970年までの15年間かかり、人々は、みんなが平等に扱われるべきだと言い始めました。
現代でも肌の色や人種が理由に差別はありますが、今やマイナーな考え方になりました。しかし以前は、人種差別があたりまえでしたからね。JANMに来館する人たちや学生たちに、あの頃のことをいくら説明しても、理解してもらうのはなかなか難しいですよ。


―それだけ、世の中の“常識”が、昔と比べて変ったという証拠でもありますね。ところで、歴史好きなサカモトさんは、ご自身の家族史についてレポートを書き、「A」をとったそうですね。

第二次世界大戦中の日本人・日系人について書きました。私は両親や祖母、おじ、おば、他の日系人たちに、戦前、戦中、戦後に何が起きたのか、どんな様子だったのか、インタビューしました。おじたちは、戦後に日本へ戻ったので、戦後の日本について話を聞けました。

私の父は熊本出身で、高校を卒業しましたが、8人兄弟姉妹の末っ子でした。明治時代の日本は、家督は長男が継ぐので、末っ子の父は「日本ではチャンスがない」と考えて、すでにアメリカに渡り農業をしていたおじを頼り、19歳で渡米しました。

一方、母はロングビーチ市生まれで5歳の時に福岡へ送られ、祖父母に育てられた帰米二世です。祖父が病気がちなことから貧しくて、母は12歳になると学校を辞めて田畑を手伝わなければなりませんでした。そして22歳の時に、アメリカに戻ってきました。
二人は知り合いの紹介で結婚して、しばらくすると真珠湾攻撃がありました。両親ははじめアリゾナ州ヒラリバーの“キャンプ”に送られ、次にカリフォルニア州ツールレイクに移されました。

戦後は北カリフォルニアに行き、父は「誰かの下で働いてもお金を稼ぐことはできないから自営がいい」と言って、狭い土地でもそれなりの収益が見込めるイチゴ農園を始めました。当時、日本人は土地を所有できなかったので、「share crop(シェアクロップ)」といって、地主から土地を借りて農業をしました。
家は、父が友人と一緒に建てたあばら屋で、そこに家族6人と住み込み2人で住んでいました。なんと12年間も住みました!その後、スタンフォード大学近くのマイノリティが多く住む地域に引っ越しました。小さい家でしたが、広く感じましたよ(笑)。
両親は、子供たちの教育には非常に熱心で、私たちはみんな大学に進学して、良い職に就き、家も購入しました。両親は、子供を通して、「アメリカンドリーム」を叶えたのです。


(つづく)

*次回はツールレイクの収容所についてうかがいます。


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入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
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JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645

2014/10/18 掲載

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