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特集記事



JANMへ行こう!! vol.37 - 文化を通して“尊重”を学ぶ


今月のガイド
ハル・ジロウ・ケイミ さん

1931年ロサンゼルス生まれ。日系二世。ワイオミング州ハートマウンテンの収容所に送られる。長年、中学校の生物の教師を務め、引退後、JANMのボランティアを始める。最初はガイドをしていたが、途中から太鼓ワークショップを学生のツアーに行うようになる。太鼓は、62歳から始める。



―ケイミさん家族は、開戦後にハリウッドの自宅からボイルハイツの親戚の所へ引っ越しましたが、どうしてですか。

ルーズベルト大統領が1942年2月19日に「大統領令9066号*」を発令したことで、西海岸に住む日系人達に「立ち退き命令」が地区単位で順々に出されました。1番目の「立ち退き命令」は、米軍基地が近くにあったワシントン州メインブリッジ・アイランドの辺りでした。リトル東京は33番目でした。当時、ロサンゼルスには3万人以上の日系人が住んでいたので、4、5回に分けて「立ち退き命令」が出ました。全体で100回以上の命令が出ましたよ。

1942年3月、アメリカ政府は西海岸に住む日系人に、もし収容所に行きたくなかったら、3月末までにコロラド州や東の地区に“自発的に転住”するようにと勧告しました。私の両親は、どこかの収容所に送られるのなら、親戚と同じ所がいいと思い、経営していたドライクリーニング店を閉めて、ボイルハイツの叔父の家に引っ越しました。こうすれば離ればなれになることはありません。しかし、時間がなかったので店を売ることはできず、両親はそれまで築いた財産を全て失いました。そして4月から6月にかけて、“転住”しなかった日系人は各地のアセンブリーセンターに送られたのです。

*大統領命令9066号:特定地域を軍管理地域に指定する権限が陸軍長官と軍に与えられた。

―ワイオミング州ハートマウンテンの収容所に送られたケイミさん家族は、終戦後は離ればなれで暮らしたそうですね。

1945年に終戦し、父は働き口を求めて収容所を出ました。鉄道を建設する職に就いて、ワシントン、アイダホ、オレゴンと転々としました。兄は12年生だったので、まず一人でロサンゼルスに戻り、高校を卒業しました。それから陸軍に入隊して日本に駐屯しました。私は母と二人で収容所で暮らしていましたが、収容所を出る日がやってきました。母と電車に乗りロサンゼルスに戻りました。

当時、アメリカ政府は、収容所から戻った日系人が一時的に住むトレーラーキャンプをたくさん用意しました。ロサンゼルス郡では、ハーバーシティ、バーバンク、ロミータの3カ所に場所を設けました。私たちが行ったのはロミータのキャンプで、私が住んだトレーラーはとても汚かったですね。

2、3ヶ月すると母がサンフェルナンドバレーにある白人宅の家事手伝いの職を見つけたので、私たち親子はそちらに移りました。住み込みだったので、その家の離れで暮らしました。2年後、父がお金を貯めて戻ってきて、ロサンゼルスにあるドライクリーニング店を購入し、再びビジネスを始めました。1948年のことでした。しばらくして兄も日本から帰国し、やっと家族4人で暮らせるようになりました。


―戦中、強制収容のために全財産を失い、戦後、ゼロからビジネスを再開するのは並大抵のことではないです。

両親は何も言いませんでしたよ。他の日系人からも聞きましたが、彼らの両親も子供には何も言わなかったそうです。

―JANMでボランティアを始めたのはいつ頃ですか。また、きっかけは何ですか。

JANMでボランティアを始めたのはJANMが開館する前の1990年で、先日、亡くなられた鮫島等さんと同期でした。

私は小さい頃から白人の友人が多い環境で育ったので、きちんと日系史を勉強したことがありませんでした。私は日系人なのに、ほとんど何も知りませんでした。JANMに来たらアメリカでの日系人とその歴史を勉強できると思いました。

当初、私はガイドをしていたので、一般的な日系史を勉強しました。その後、日系二世で構成された第442連隊戦闘団や第100歩兵大隊について知りました。特に442が成し遂げたことを知った時には、自分が日系人だということにとても誇りを感じましたね。

本当に知らないことだらけで、全てに興味津々でした。アセンブリーセンターがたくさんあったことも、収容所の詳細についても知りませんでした。「私自身が体験者だったのに!」ですよ。


―ケイミさんは、ガイドから太鼓のワークショップをするようになったんですね。

現在、「太鼓プロジェクト」というプロの太鼓演奏家グループのリーダー、ブライアン・ヤマミが、90年代半ば、JANMにインターンとして来ました。ある時、ブライアンが「太鼓を作りましょう」と言ったので太鼓演奏家のジョージ・アベさんにも手伝ってもらい、手作りの太鼓ができました。それ以来、訪問者の前で太鼓のデモンストレーションをすることになり、やがて太鼓の数も増えたので学生のツアーで太鼓ワークショップを行うようになりました。

学生には、実際に太鼓を叩いてもらいます。小さい子供から高校生まで年齢に合わせて、簡単なリズムから難しいリズムなど自分で工夫しながらプログラムを作りました。太鼓は日本文化の一部で、JANMも日系文化を展示しています。学生たちは、JANMに来て、アメリカには多くの文化があることを体感します。太鼓を演奏した後に、もう一つの重要な文化“尊重”について学びます。

アメリカではメキシコ、ドイツ、日本などあらゆる国から来た人々が暮らしています。一緒に生活をしているのですから、互いに尊重し合わなければなりません。演奏後は観客に向かい「ありがとうございました」と感謝のお辞儀をします。この行為は“尊重”を表現しています。太鼓を演奏することで、“尊重”に基づいた礼節や風習を学ぶことができるのです。学生はワークショップを通して、JANMが発信する日系文化にコネクトするのです。

文化はとても大切です。自分自身のバックグラウンドをまず知り、次に他の文化を持った人々から異文化を学ぶと理解も深まり、誰とでも仲良くなれるからです。



写真・文・構成 Tomomi Kanemaru

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JANMに行くと日刊サン読者にプレゼント!

入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
*入館料をお支払いの上、入館された方のみ対象。




JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645

2014/07/05 掲載

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