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JANMへ行こう!! vol.32 - 広告業界で活躍した初の日系アメリカ人に聞く


今月のガイド
マス(マサオ)・ヤマシタ さん

1936年生まれ。日系二世。7人兄弟姉妹の次男。カリフォルニア州オークランドからユタ州トパーズの収容所に送られる。高校卒業後、空軍に自ら志願して入隊。除隊後はGIビルでパサデナのアートセンターで学ぶ。広告代理店のDoyle Dane Bernbach に勤務し、ホンダ、ポルシェ、アメリカンエアラインなどのメジャー広告を手がけ、数々の賞を受賞し引退。



―ヤマシタさんは、現在はJANMでボランティアをされていますが、引退前は広告業界をリードする広告代理店Doyle Dane Bernbachで活躍されていたそうですね。ヤマシタさんがこの業界で活躍した初の日系アメリカ人(以下、日系人)だったと聞きました。いつ頃にクリエイティブな才能が開花したのでしょうか。

ヤマシタ家の記念写真。一番左がマス・ヤマシタさん。中央が父親の豊二さん
子供の頃に弟と一緒に、オリジナルのコミックブックを作りました。二人で、いつでも何でも描いていましたね。私の家族は貧しくて、おもちゃも買えませんでしたからコミックブックでも何でも手作りするしかなくてね、ドローイングは紙と鉛筆があればできますからね。とにかく描いて描いて描きまくっていましたよ。誰から教えてもらったわけではありませんが、それが、唯一、私たちの遊ぶ方法でした。

第二次世界大戦が始まり、私たち家族はトパーズの強制収容所に送られました。収容所に住むのはそんなに悪くなかったです。なぜなら、みんな同じ生活環境でしたからね。けれど収容所から出たとたん、同じ日系人でも経済的な面で違いがあるんだと痛感しました。
当時の日系人は、みんな、生活が大変でしたが、私の家族ほど貧しい家族を私は知りませんね。収容所から出た後、ユタ州ソルトレイクシティに移り、古い大きな二階建ての家を、他の家族とシュアしました。私の家族は二階に住みました。

ソルトレイクシティに着いた最初の晩、母は私たちにホットドックを買わせにいかせ、醤油と砂糖を混ぜたテリヤキ・ホットドックを作ってくれたのを覚えています。このおかずは、今も我が家で妻が作ってくれます。材料は少し違いますがね。当時、うちには冷蔵庫がなかったので、代わりに父が大きなメタルの入れ物を買ってきて氷を入れて、ミルクや食べ物を冷やしておきました。
こんな保存の仕方だったので、全て二日しかもたないのです。私は結婚するまで、ミルクも食べ物も二日過ぎると腐ってしまうんだと思っていました。本当ですよ。(笑)ある冬のことですが、雪がたくさん降って雨漏りがして、母と姉妹たちが寝ている部屋の天井に水が溜まり、天井が抜け落ちたこともありました。父が、その後、修理しました。


―収容所では同じバラックに住み一様だった生活レベルも、解放されたとたん、住まいや環境が家庭ごとで本当はこんなに違っていたのかと思い知ったことは、子供心に衝撃だったと察します。

それだけではありませんでした。収容所から戻ってしばらくすると、母は他の男性と一緒に、まだ小さい一番下の妹だけを連れて家を出て行ってしまいました。私たちに「さようなら」と言って、私たちを置いて去っていったのです。その晩、父は酔っぱらって怒鳴りちらして、とても怖かったですね。
けれど、父が酔っぱらったのはあの時だけでした。日本生まれの日系一世の父とは、強制収容のことなど含めて、ほとんど何も話をしませんでした。日本人の父親というのは、語らないものなんですよね。昔の日本の父親は無口だという印象がありますね。


―ヤマシタさんは、日本語を勉強をされたのですか。

ヤマシタさんの父親の豊二さん(左)と母親ミチさんの外国人登録書=1942年2月4日、サンフランシスコ
父は私を日本語学校に行かせたかったのですが、私は日系人に関わるのが嫌だったので行きませんでした。私が通った通常の学校はほとんどが白人で、日系人は女の子一人でした。当時の白人の先生が私の日本語名「マサル」と発音できなくて、これも嫌でたまりませんでした。けれど他の日系人や父親のように、アメリカ人の名前に換えようとはしませんでした。自分でも、どうしてなのか分かりませんが…。

高校では、日系人と関わりたくないと言うわりには、友人は日系人でした。よくある話ですがイジメがあり、私がその的になりました。私は「人にどう思われるか」ばかり気にするようになり、自分にも自信を持てませんでした。教会へ通うバスの中で、白人の子供たちからジロジロと見られるのも嫌でしたね。それを障害者の兄のせいにして、私は兄を怒りました。兄は何も悪くないのに、いろいろなことが重なり私は自分の怒りをぶつけてしまったのです。高校卒業後、2、3ヶ月して私は空軍に入隊しました。空軍での体験は、私を成長させてくれましたし、自分にも自信を持てるようになりました。(Vol.33に続く)


写真・文・構成 Tomomi Kanemaru

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入館料お支払いの際に「日刊サン掲載の『JANMへ行こう!!』を読んだ」と言うと、『ワシントンへの道 ~米国日系社会の先駆者 ダニエル・イノウエ議員の軌跡 ~』と『知られざる政治家 ラルフ・カーとニッポン人』の2つの日系移民史ドキュメンタリーが入ったDVDを特別プレゼント。昨年末に亡くなった大統領継承順位第3位のイノウエ議員のインタビュー入り。非売品なので貴重なDVD!
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JANM・ジャニム(全米日系人博物館)
Japanese American National Museum
日系アメリカ人の歴史と体験を伝えるアメリカ初の博物館。アメリカの人種と文化の多様性に対する理解と感謝の気持ちを高めることが目的。ボランティア・ガイドに支えられ、訪問者は展示にはない興味深い話を聞くことができる。

100 N. Central Ave. Los Angeles, CA
・213-625-0414
http://www.janm.org
開館:火・水/金・土・日 11:00 ~17:00
木 12:00 ~20:00
休み:月曜
料金(企画展も含む):一般9ドル、シニア&学生&子供5ドル、メンバー無料
*木曜17:00 ~20:00、毎月第3木曜は無料
交通:メトロ電車:ゴールドライン「Little Tokyo / Art District」下車。徒歩1分
駐車場:あり。博物館前、他多数(有料)

★「ボランティア・ガイド」に関心のある方は、下記まで。
213-830-5645

2014/05/17 掲載

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