キム・ホンソンの三味一体
vol67 沈黙/Silenceという映画を観て
2017-02-09
先日、映画館で沈黙/Silenceという映画を観ました。幼い3児の父である僕にとって休日に子供達を家内に任せて一人映画館に行くというのはあり得ないことです。もしどうしても観たい映画があって行ったとしても、おそらく家に帰った後、待ち受けているであろうこと(まずは沈黙、やがては苦難?)を想像するあまり映画など全く頭に入らないと思います。今回はキリスト教に関する映画だということで平日の仕事中に映画館に足を運びました。
感想としては、この映画での関心事は「神」ではなく私達「人間」であると思いました。江戸時代初期のキリシタン弾圧の中、踏絵を踏めずに殉教していく村の人々、踏絵を踏んだ自分の弱さを悔い嘆く吉次郎、そして「なぜ神は彼らの苦しみに沈黙するのか」と問う神父のロドリゴなど色々な登場人物がいました。搾取と抑圧の対象であった農民のクリスチャン達は、イェスこそが自分達を愛し受け入れてくださった方であるという主観的な信仰に忠実に従い、踏み絵を踏まず死んで行きます。しかしそれを見守るしかできないと苦しみ悩む神父ロドリゴは、踏絵を踏んで他に対して模範を示せば信者達を処刑しないという取引に応じ、人々の命を救い自分も生き延びることになります。
イェスへの素朴で純粋な主観的な信仰を守り通した村の信者達と、イェスは常に彼らと共に苦しんでいたことに気づかされ、自分の信仰を客観化し踏絵を踏んで捨教の烙印を自ら請け負う神父ロドリゴ、どちらも自分の信念に対して常に一生懸命であろうとする時の私たちの内面の姿ではないかと思います。しかし映画にはもう一つ別のタイプのキャラクターがいます。何度も躓き、踏絵を踏んではその度後悔し赦しを乞うどうしょうもなく情けない弱い吉次郎です。しかし実は彼の姿こそが私たちの本質ではないでしょうか。
宗教改革者のルターは、クリスチャンの本質を何一つ誇ることの出来ない、神の恵みを乞うしかできない物乞いに例えました。日々躓きその度キリストのところに駆け寄ることができるからこそ、映画の中で踏絵の中のイェスの声「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」を聞くことができる。そしてまたも赦されその愛と恵みに包まれる。これが信仰を持って生きるところのありのままの人間の姿ではないだろうかと考えさせられる今日この頃です。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。