キム・ホンソンの三味一体
vol62 双子ボーイズの洗礼式
2016-10-27
先日、我が家の双子ボーイズが洗礼を受けました。洗礼といえば、クリスチャンになる人のためのセレモニーといったような大まかな印象がありますが、より正確に言うと神がその恵みでもって私達を清めてその恵みの内においてくださるという、神様からのギフトのことです。一般的には、洗礼を受けるには聖書を勉強して自分の人格や品性を整えて神の愛に相応しい人にならないといけない、と言ったようなイメージがありますが、実は全くそうではありません。私達が属しているキリスト教派の表現を借りれば、洗礼は私達が頑張って勝ち取るようなものとは全く異なるもの、私達の頑張り具合やヤル気、そして今後の可能性などとは全く関係なしに、私達の方の実情はどうであれ、あくまで神がそうしたいから、私達に注いでくださる恵みに他なりません。
ですから私達の方は、子供がパパやママにするみたいにただその胸に飛び込むことだけが求められますし、もし赤ちゃんのように自分で飛び込むことが出来ない場合は、その親やその子を預かっているコミュニティーが神様の胸にその子を抱かせてあげる役を引き受ける訳です。資格や資質、努力や実績も問わず与えられるギフトの中身は「神はそのままの私達を受け入れ良しとする」という約束です。なんてラクチンなのでしょう。私達の人種がどうであれ性別がどうであれまた社会的地位や財産の有無に全く関係なく、神は両手を広げて受け入れてくださるという訳です。
洗礼式のあった日曜の夕方のことです。お兄ちゃんの遊んでいるオモチャが欲しかった弟くんが、お兄ちゃんの手からオモチャを奪い取りました。するとお兄ちゃんも奪い返します。気に食わない弟くんはお兄ちゃんの頭を思いっきり叩きました。ここでパパの出番です。大きな声で叱られた弟くんは世界で一番悲しい被害者を演じて泣いています。「おにいちゃんソーリー」に今日から「かみさまソーリー」も加えられました。叱ったパパ自身も、泣いている弟くんをみていると胸が痛くなりました。今度は泣いている弟くんをぎゅっと抱きしめながら、自己中心で愚かながら悲しみ苦しみにおいてはなんとも脆い私達を日々抱きしめて一緒に苦しみに耐えてくださっている神のことを思いました。
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。