キム・ホンソンの三味一体
vol.61 慰めと安らぎはどこから?
2016-09-29
先日、私がチャプレンを務める幼稚園の入園式で、保護者の方々にご挨拶しました。キリスト教にあまり馴染みのない日本人のお父さんお母さんに、限られた時間でどうしたら聖書に根ざした教育について簡単に説明することが出来るだろうか悩みました。そこで自分だったら一人の親として「教育」に何を期待するだろうかと考えてみました。私達は教育を通して子供に社会の一員として生きて行くために必要な知識とスキルが身についてくれることを期待しているのではないでしょうか。そしてそれは当然で正しい期待だと思います。
キリスト教教育においても全く同じですが、ひとつ違いがあるとするならば、知識とスキルの教育に加えてもう一つの要素が付け加えられます。
「みなさん、もし雨が降って来たとします。幼稚園では子供達に出来るだけ雨に濡れないようにすること、そして、濡れたとしても風邪をひかないようにすぐにタオルで拭いたり着替えたりすることを教えます。まさに問題に対する予防や解決のための知識を教える訳です。しかし聖書に根ざした教育では、これらの知識に加えてその雨は実は恵みの雨でもあって、悪人の上にも善人の上にも分け隔てなくその雨を降らせてくださる神について教えます。」
おかれた状況の中で常に何らかの葛藤を背負って生きて行く中、その葛藤を解決するために知識とスキルを身につけることは大変役に立つでしょう。しかし、それらの知識やスキルによって安らぎや慰めを得る事はないのではないでしょうか。雨という自然現象の中に恵みを注いでくださる神を見出すことは、ただの偶然によってこの世界に産み落とされたかのように見える我々一人一人が、実は神によって創られたかけがえのない存在であることに気づくことでもあります。この私は他には決していない私であって、私の人生には私を創った神の意図があって意味があることを知ることは、悩みと苦しみに満ちた人生であっても慰めと安らぎを得ることに他なりません。
6歳と2ヶ月になる娘が1年生になりました。学校がはじまって数日だった頃でしょうか、ある日のお迎えの時、僕を見つけた娘が遠くから全力で駆けて来て僕の胸に飛び込みました。泣いていたようでしたがどうしてかと聞いても本人はにこにこしながら「もうだいじょうぶ」としか言いません。私達全人類にとっても、いつでも飛び込んで行ける神さまの胸があるということを知ることは慰めであり安らぎです
※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。