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コラム

現代社会ド突き通信
第二回 ハイブリッド文学・唐 亜明様

2014-07-18

 当時は商いから文化から東京中心の中央集権で、東京で育った者だけが言葉の特権があり、誰もがそれが当然と考えていた状態でした。編集者も作家も殆どがそのような考えでした。わたしが原稿を渡した編集者は、内容がどうこうというのではなく、わたしの日本語がたどたどしいと言って、なかなか印刷してくれませんでした。アメリカでは1960年代末にブラック・イングリッシュが認められましたので、日本もそうなっているかと思っていましたが全然だめでした。
 あなたがエッセイで「“日本語文学”というジャンルがあってもいいと思っている。ぼくのような“不自由”な人はほかにも多くいる。そんな人たちが自由に書ける日本語文学という枠組みがあれば、もっと多様な文学が生まれ、豊かになるはずだと思う」と書いていらっしゃるのを読んで、アメリカに来た時、日本の授業の国語がこの国では何に当たるのか、イングリッシュという科目に思い当たるまで永い間かかったのを思いだしたのです。わたしもあなたのようにずーっとそう考え続けて15年待ちました。
 エッセイは標準語のほうを好みますし、東京に住んだことがないわたしには難しく、自由にこなせるのはわたしが子供の時に脳に深く入力した大阪弁だと気がついたのです。
 勿論1960年にアメリカにきましたので60年までの凍結した大阪弁ですが、わたしの体のなかに染み着いた言葉ですので自由に表現ができます。小説なら大阪弁で書けると思い付き、小説を書きました。
 それである雑誌の編集長にわたしの処女作を送ったのですが、返事もなく3年も返してくれませんでした。あの時はコンピューターもプリンターもなく、出版社に渡すものは手書きで書いたもので、オリジナル(つまりカーボンで取ったコピーではいけない)でなくてはならないというとても今から考えるとアビュース的な条件でした。更に電話を掛けてもなかなかその編集者が掴まらず(また国際電話は今のようではなく一分百円位はしていましたかしら)という状態でした。
 次の出版社に送ろうと思ってもそれを返して貰わないと送れないし、オリジナルをもう一度五百枚も書く気もしませんでした。当時編集者で海外に住んだ人は殆どいなかったので、こちらに住む人間のそんな不便さは解さないようでした。無名な者にまで思いやりがありませんでした。
 遂に日本にいる友だちに取り返してもらいました。その五百枚が帰ってくるのを待っている間に、仕方なく短編を書き始めました。その短編を公募に送り込みました。締め切り日がはっきりと分からず、あてずっぽうに送りました。
 受け取ったのか読んでくれたのかさっぱり分からずで、5回ほど落ちたらしいと思ったので、今度は一作だけに頼っていても駄目だと思い、二作目を書きました。「これが最後で、これが駄目だったら絵に戻ろう」と二作を違う文芸雑誌に送り込みました。その年二作がそれぞれ新人賞を受け、その一つが芥川賞を受けてやっとプリントしていただくようになったのですが、本当に難しい社会だとつくづく感じたことです。 (つづく)


※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。
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米谷ふみ子




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