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コラム

龍馬ゆかりの人々
第44回 第二章 龍と象

2011-04-28

関義臣の懐旧談を、3年前に私は義臣の曾孫・小原正義氏から手渡された。義臣が記録した110年前の手記は、昭和52年11月15日に小原氏が注釈と口語体にして出版した。今回は、それを数回にわたり記したいと思う。


 関義臣が海援隊の一員になった翌年、つまり慶応三年の春、後藤象二郎も汽船を買い入れるために長崎に来た。そして龍馬と象二郎は対面するが、最初から肝胆相照らす活発な意見の交換が行われた。後に、象二郎を評してこう言わしめた。「彼は才物である。彼は、我と時勢を談ずるに、一言も既往の歴史に渉らず、恩讐共に、忘るるごとく、杯酒の席に於いても、談柄を常に己に属せしむ、我は、彼の才を利用して、我が党の志望を達せん」と言っている(原文のまま)。
 これを見ても、龍馬と象二郎の意気投合した様子が分かる。義臣が忘れ得ぬ、その時の光景を記録している。「私(義臣)も、これ以来、後藤と懇親にして、その教えを受けた。龍馬は私より2つ上、象二郎は1つ上だから私は、常に兄仕し、その人物には、非常に推服して居った」。(原文のまま)
 大政返上の動機は龍馬、象二郎の発意で、それを携えて土佐藩主山内容堂公へお勧めしたのだ。全く龍と象とが維新の風雲に一転機を与えたとも言える。義臣翁は、 「ついでだから言うが、龍馬を“りうま”と読むものが、これは、“れうま”でなければならぬ。りうは関東の訛りで、関西ではすべて“れうま”と言う」。義臣翁は、なかなかお強いご意見である。
 この時、つまり義臣がこの著書を書いた時、「龍馬亡きあと40年を省みて、是でも40年前の大健児だ、命を的にかけて奔走した、老来、意気ますます豪なり、いまでも国家のためとあれば、命は惜しまんよ」。幕末、明治を生き抜いてきた日本男児の心意気を改めて感じる。
 海援隊はご存知の兵庫の海軍所から発している。幕府の弾圧によりいち早く閉鎖された。塾長の勝海舟も一度は退くが、塾生たちは京都に潜んだもの、長崎、薩摩、長州に散るが、やがて長崎にいる龍馬のもとに馳せ参じる。
 義臣翁は、「坂本は単なる志士論客ではない。経済、航海術に長けている。同志の生活が成り立つように考えている」と龍馬を傑出した才物だと評価している。


関 義臣 1839年生まれ。越前福井藩士・政治家。男爵。藩校明道館で学ぶ。その後、長崎の坂本龍馬を訪ね、亀山社中に加盟した後に海援隊に所属。大阪府権判事をはじめ徳島県知事、山形県知事、貴族院議員などを歴任した。


※コラムの内容はコラムニストの個人の意見・主張です。
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飯沼信子

著述家。静岡県沼津市生まれ。歴史の中に埋もれた、海外で活躍した日本人、
その妻らを取り上げ、「野口英世の妻」「高峰譲吉とその妻」等の本を著す。
2006年、その功により、日本政府より旭日単光章を受章。日本ペンクラブ会
員、日本エッセイストクラブ会員。ウエストヒルズ在住。




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